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名人のおもかげ資料 竹本摂津大掾 p1〜20

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 本朝二十四孝 十種香の段 竹本摂津大掾 六世豊澤廣助 邦楽芸能全集−SP盤復刻−(日本コロンビア COCJ-36744-5)

            

放送記録

17回 昭和25年4月6日 解説:高安(六郎)竹本摂津大掾の十種香
360回 昭和27年4月11日 解説:安原(仙三)竹本摂津大掾の十種香

          

摂津大掾
竹本摂津大掾は、天保七年三月、大阪に生れ、初めは三味線弾きであったが、後、五世竹本春太夫の門人となり、二十二才の時、竹本南部太夫となった。其の後二世竹本越路太夫となり、明治十六年、四十八才で文楽座櫓下となって、その美声で天下を風摩し、名実共に第一人者となった。
明治三十六年一月、六世春太夫となり、同年五月、小松宮家より竹本摂津大掾を受領、大正二年七十八才の時文楽座を引退、大正六年十月九日、八十二才(八十三才)で亡くなっている。二世豊沢団平と並んで明治期、義太夫界の第一人者として今日まで語り草となってゐる名人である。

広助−絃阿弥
三味線は、松屋町の師匠と云われた六世豊沢廣助、後に絃阿弥の名を近衛家から貰った人で、二世団平に次ぐ名人の五世廣助の門人である。猿二郎、龍助、仙糸から三世広作を名乗り、師匠五世広助の死後、明治三十八年一月に、六世を襲名、大正十二四年 絃阿弥となり、翌十三年三月十九日八十二才でなくなった。偶然にも、三代目越路のなくなった翌日であった。

大掾とレコード
明治期、義太夫の名人と云へば、二世、豊沢団平と摂津の大掾を推すに誰も異存はあるまい。団平の名人芸は残念乍らレコードに残って居ないが、摂津大掾の浄るりは、充分にその妙味を伝へては居らぬとは云ふものの、幸ひにレコードに残ってゐて、その面影を偲ぶ事が出来るのは、つくづくレコードの有り難味を思わせて呉れる。
此のレコードは明治三十八年、当時、大阪商工会議所の会頭で、摂津の大掾の後援者であった 土居道夫の盡力に依って、北区常安町にあった土居さんの八畳のお座敷を急ごしらへのスタジオに改造して、そこで録音されたものである。何故こんなところで、録音されたかと云ふと、もともと、大掾はレコード吹き込みを大変嫌がってゐた。然し、外ならぬ土居さんの御たのみで断りも切れず、依ってただ土居さんが特に知り合ひにお分けするだけと云ふ條件で、云はば後世にのこすと云ふものではなく、一時の座興と云ふ軽い気持で、大掾は吹き込んだのである。此の吹き込みのプロデューサーとでも云へる人は、当時の蓄音機業の第一人者である。三光堂の松本常三であったが、松本さんは、此の大掾の申し入れをそのまま受入れた。そして一般には売り出す事をしないで、当時の型録にも、希望者は特に申し込まれたしと印刷してあって定価が入っていない。この当時、明治三十八年頃であるが、外のレコードには一枚が四円五十銭位の定価が附いているから、まあその位の値段で分けられたのであらう。米一升が七、八銭位の時であるから、三枚で十五円位、米にして二石にもなると云ふ、随分高いレコードになってゐる。ところがその後、此のレコードの 米国のコロンビア会社は、販売権を天賞堂にも分けた為め、いくら三光堂が約束を守っても天賞堂の方からどん\/売られるようになり、遂に初めの大掾との約束は破られて了って、沢山市場に出る様になってしまった。一般に売られて後世に残るものなら、今少し慎重に吹き込みすればよかったと大掾も心中尠からず不満であったと云ふ。事実今文楽に出てゐられる山城さんや、清八さんなど、大掾を実際によく知ってゐられる方は、大掾の浄るりはこんなものではない。まだ\/立派なものだと口を揃へて云ってゐる。だから大掾としては出来のよくないものであると云ふ事を頭において、これからのレコードを御聞き願いたい。吹き込んであるものは「本朝廿四孝」十種香の段、マクラから、勝頼の  不憐ともいぢらしとも云はん方なき二人が心とそぞろ涙にくれけるが、までで、大掾のレコードとしてはこれ丈けしか残ってゐない。三菱の岩崎家や大掾の子孫二見家に、蝋管と云ふ、普通のレコードとは違うものに、「新口村」や「十種香」や「妹背山」があると云ふ噂であるが、現存してゐるかどうかは分からない。摂津大掾の芸談や、逸話は沢山あって ここで話切れぬ位だから、御興味のある方は、水谷不倒の「竹本摂津大掾」や、杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」などの書物を参照ねがひ、今日は此のレコードを聞きながら御話を進めていかう。(安原)

十種香
先づ第一回は、  臥床へゆく水の から  悠々として  まで五行本で云へば一枚にも足りない位であるが、三味線の六世豊沢広助、後の名庭絃阿弥が、模範的な十種香のオクリの三味線を弾いてゐる。十種香の三味線のオクリの手は此の段丈にしか使はない独特の手がついてゐるものだ。

( 臥床へゆく水の ・・・  悠々として ) 以下参考音源:邦楽芸能全集−SP盤復刻−(日本コロンビア COCJ-36744-5)

誠に悠々としてゐるが、御聞きの通り、大変雑音の多いものをである。然し、これでも一番スクラチノイズの尠いレコードである。

( 一間を立出で ・・・ 床に絵姿かけまくも)

只今の処  ハテ合点のいかぬと の「合点」 を上げずに下へ押さへ  合点のいかぬ と語ってゐる。大掾の「十種香」と云へば天下一品で、これが出ると入場料が倍にもなったと云ふ事であるが、或る時三世竹本南部太夫と当時の鶴太郎、今の鶴沢清八が、大掾の処に稽古にいくと、あれ程有名な此の「十種香」を大掾は、自分で独り語り方を工夫してゐるのを見てびっくりしたと云ふ逸話がある。その位大掾は幾ら頭に入り込んでゐるものでも、常に研究を怠らなかったと云ふ事である。

( 御経読誦のりんの音 ・・・ 手を合はせ )

此方も同じ松虫の のあたりの間のよいことは何とも云へない。こう云ふ所は レコードが残ってゐればこそ、大掾の妙芸を偲ぶことが出来るのである。

( 手を合せ ・・・ 南無幽霊出離生死頓生菩提 )

語り方に少しも無理がなく、円く\/語れて、而も品の好い事は何とも云へぬ。私の知ってゐた或る浄るり好きの人が「私が死んだら、御経の代りに此の大掾さんの南無阿弥陀仏のレコードをかけて呉れ」とたのんだとのことだ。
尤もこのレコードの「なまいだ」は、後年大掾が、耳が悪くなったせいか、調子を探ってゐる様なところが見える。こう云うところが此のレコードの出来の悪いところかもしれない。此の吹き込みの時の大掾は七十才であった。

( 申し勝頼様 ・・・ 名画の力も )

前の濡衣と此の八重垣娘との区別も亦格別美事である。今から約十年程前、竹本重太夫が今の七世広助と私の家に来て、此の大掾の「十種香」のレコードを手本にして勉強した事があるが、畫には畫かしはせねもの のところで、二人で顔を見合せて、感嘆久しうされた事がある。

( 名画の力も ・・・ そぞろ涙にくれけるが )

惜しいことにここでレコードは終ってゐる。
此の勝頼の美事な詞の使ひ方、私はもう何十遍聞いてゐるか知れないが、聞けば聞く程良くなって来るので、名人芸の底の深さは測り切れぬものがある。(安原)

摂津大掾
摂津大掾は、二十才の頃江戸に出て三味線の師匠、三代野沢吉兵エのけいこを受けた。この人は初め 市治郎から二世勝鳳になった人で、その吉兵エからきびしい教をうけ、殆んど、毎晩徹夜して稽古した事がつづいたため、とう\/目を患ったといふ。
名人団平の語に 「古浄るりは春さんでお終い、それ以後は、エセ浄るりや。」とあったが、吉兵エの配慮でその名人、春太夫に入門させ太夫にして二世越路をつがせた。この吉兵エの実父は勝鳳から初代越路になった人だから、つまりその実父の名を襲がせたわけだ。
二代目越路も始めから偉かった訳でなく、何かしら若輩であり、そう早くから認められるものでないので意気が頗る消沈していたのを師匠の春太夫がいろ\/慰めたり励したりして辛抱させ勉強させたので、その御かげでぐん\/出世し、明治十六年四月四十八才で紋下となり、三十六一月「越路の名を高弟文字太夫にゆずり、自分は一旦六世春太夫となってから、その年の五月に摂津大掾を受領する事になった。それで大掾は一生この春太夫に吉兵エ二人の写真を祀って出入りにも手をついて挨拶をしていた」と聞いて居る。
この人は息が極めて長くまたその息つぎが上手で、一寸気がつかぬ様に、余程巧いものであった。中年までは行儀が悪く、身を揺ったり、見台に両手をついて延び上ったり、よくしたが、そんな場合はいつもその綺麗な美しい声が清い山の泉の様にス―と出されるので見物はただもう夢中になってよろこんで拍手するばかりであった。
大掾の声はカンは何程でも高くでる。それが唯よい声と云ふばかりでなく、鋭くなくてボンヤリと潤いのある、上品で艶気がたっぷりと云うのだから、十種香の様な金襖の中の姫君の恋。中将姫とか乳母、政岡などが一番適役で、これには他に真似手がない。
それで明治三十九年一月の先代萩で「この御殿と云ふのは大掾のために作られたのではないか。」と皆が云った位である。
行儀の悪いのは晩年に近づくにつれ、すっかり改められ、紋下らしい立派な態度となった。この人の妙処が声ばかりでなかったのは云ふまでもないが、あの長い舞台生活の間、工夫に工夫を重ねて不断の努力を惜まなかった一例として次の事が伝えられている。
大正元年正月、七十七才で 忠臣蔵九段目 山科を一世一代として語った時である。
「九段目は九度目やが、始めてまともの本蔵の詞が語られる様になった。」と、三味線の六世広助に云ったそうだ。
その翌年七十八で引退の時、楠昔噺の三ッ目を語ったが、これは長丁場の大物として有名なのを、五十一日間ぶっ通しでやったので皆がびっくりし「まるで四十位の勢や」とか 「大掾は今度これをやるのに前から声を残したったんや」などと噂された。五十一日が首尾よく済んで帰宅した時、一番に師匠を迎えたものというのは それは灘万が丹精こめて料理した鰻の蒲やきであった。実際大掾の一にも二にもの大好物は鰻だが、それを 七十何年間幾重に監視して一片も口に入れさせなかったのは賢妻おたかさんの涙を呑んだ愛情からで、そのため声づかいから調子など何の失態もなく、無事円満に幾十年の芸生活を閉じる事が出来たのだ。大掾が、あの太い眉によろこびをたたえて童の様に好物を貪り食う様の、いかに朗かであったかは想像できる。(高安)

十種香
レコードは、よく好き者の口に上る。「回向しようとてお婆を」の白で名高い十種香の段で、一七六六年、明和五年の正月、竹本座で初演、作者は近松半二、三好松洛、それから人形遣の名人 吉田文三郎の二代目で やはり親同様に作者を兼ねて、吉田三郎兵エ外、二三の合作になる 本朝二十四孝の四段目、上杉謙信館の一部である。
筋は その頃の作に多い複雑怪奇な趣向で見物をアット云はさうとしたものだから、一寸簡単にはならないが、今この場面に現われる人物は三人で 館の主、上杉謙信の愛嬢 八重垣姫、その侍女の濡衣、それに花作りの蓑作と称して入れ込み、改めて抱へられた武田勝頼と、この三人である。
八重垣姫は後に許嫁の勝頼へ、武田家の重宝、諏訪法性の兜を手渡しようと 諏訪明神の使、白狐の力によって、飛び回るといふ大役で、芝居の方では 三姫の一人といはれておる。この場では、姫は上手の一間で、我許嫁の夫勝頼が、自殺したと思って その絵姿の前で十種香を焚いて悶々の情をのべてゐる。
ところが戦国の習ひで自殺したのは 真の勝頼ではなくそれによく似た家来を身代として 前々から養うてあった、その替玉が腹を切らされたので それを二世の契りを詰んでゐた濡衣はスパイとして上杉家へ入込み、姫の侍女になってゐるが、今日その夫の命日にあたるので下手の一室で位牌に向ひ、夫の冥福を祈っておる。本当の勝頼は今日抱へられて衣服を改め、長上下に大小を帯びた、若衆姿の華やか美しい出たちで真中に出るから、二人の若い美女たちは幻から現実の勝頼を見て、更に濃艶な情痴の世界が展開される。それが大大名の奥座敷で金襖に黒塗障子、金襖の幕みごとに堂々たる御館、上品で優雅の中に艶やかな色気に富んだ場面となる。

( 行水の流と人の蓑作が ・・・ 流涕こがれ見え給ふ )全六面

このレコード
このレコードは明治三十八年十一月に先づ蝋管に吹き込み、それから出来たのが コロンビアの黒、これが技術的に太だ拙かった。その当時の縁者にあたる灘万のお徳さん、(万助の妻君)がこれをかけて「何やコラむらはんやが、こんなもん残したら恥や、割ってしまいなはれ。」と買メさして割ったとか聞いた。むらハンとは八代目むら太夫で、二代目越路既摂津の門人だが、非常に強い甲ン声で、御簾内で語っていても耳がビンとするようなこともあった。まあそれ程でなくても大分摂津らしさが失われているが、それから数年経った後、更に第二版の青が造られた。唯今使用のレコードがそれで、今度は鋭さはグット減った代りに案外強く、優美でなよ\/とした艶やかさが一向出ていない。本物を聞いている方はとにかく、始めての方は到底故人の芸を想像し難いと思ふ。然しとにかく、摂津、絃阿弥両名手を偲ぶことの出来るレコードはこれ以外にないのだから、この点よろしく御諒察を願いたい。(高安)