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名人のおもかげ資料 明治から大正への義太夫節 p20〜22

使われた音源 (管理人加筆分)
不明
独ライロホン 心中天網島 貴鳳 豊澤竹三郎(七世広助)
独ライロホン 摂州合邦辻 貴鳳 豊澤竹三郎(七世広助)

    

399回 昭和27年7月4日 解説:木村(豊三郎) 広助(豊沢) 素義の人々

     

貴鳳
 
初代貴鳳、浜村正次郎は 安政三年二月廿九日大阪の周防町に生れた。大手通りの砂糖屋である。若い時分から義太夫に熱中し、兄の砂子、弟の貴若と共に 濱村の三つ子といわれた素人義太夫の名手である。とり分け「忠九」「先代御殿」「堀川猿廻し」が得意で、有栖川宮、伏見宮の御前演奏をしてお褒めを頂いて居る。大正三年三月二十九日 五十九才で歿。

素義の人々
 素人が稽古をする浄瑠璃の内でも常磐津や清元では 素人常磐津とも素人清元ともいはないが、義太夫に限って素人義太夫、素人浄瑠璃といふのは変な物である。義太夫でも特に素人玄人と違った勉強をした訳ではないし、現に 文楽では人気のある伊達太夫や松太夫は 共に三十何才迄、他の職業に従事して、立派にやってゐた人である。
古い処では延享の昔、政太夫即ち二代目竹本義太夫の連中に順四軒という人があった。非常に旨かったが、自分より下の連中が、どん\/太夫になるのに此人は到頭死ぬ迄本舞台は踏まなかった。その上、播磨少掾口傳書という文献を残して居る。それから下って文化文政期に、京町堀三丁目の骨董屋で、松平(松屋平三郎)という人が出てゐる。此方は特にチャリ浄瑠璃が旨かった。それ計りではなく 戯画(後のポンチ画、漫画の類)に妙を得て居た。これには有名な平賀源内が 讃文を書いてゐる。
明治維新の頃、堂島に炭小太という人があった。名人團平や松葉屋の廣助も教えを受けたし、梅玉中村歌右衛門も此人の忠言を受け入れて演出に工夫を重ねたと木谷さんが話してゐたから、相当なものであった事が偲ばれる。堂島市場で拍子木をたたく役をする人だったそうだ。
明治初年の素人番付を見ると、ずらり五百人余りの名前が出て居る。これでは本町の呂篤と久太郎町の十三が両大関である。呂篤は名人長門太夫に稽古をして「素人長門」と云われた人。又十三は摂津大掾が まだ三味線を弾いて居た時分からの連中である。
明治中期になると、天満の轡、福島の吹要が有名である。此外にチャリ語りの名人、小清水があるが、此人はレコードに残して居るそうだから、他日聞いて頂く機会があると思う。(木村)