浄瑠璃名盤集資料 三世竹本大隅太夫 p1〜p31
使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 壺坂観音霊験記 沢市内〜山の段 三世竹本大隅太夫 三世鶴沢清六(音源テープの試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
米コロンビア 桜鰐恨鮫鞘 鰻谷の段 三世竹本大隅太夫 三世鶴沢清六 (文化デジタルライブラリーに音源あり>舞台芸術教材で学ぶ>文楽>歴史と義太夫節>文楽の歴史>明治の黄金時代「文楽座と彦六座」>三代目・竹本大隅太夫の語り)
米コロンビア 義経千本桜 鮓屋の段 三世竹本大隅太夫 三世鶴沢清六
米コロンビア 一谷嫩軍記 熊谷陣屋の段 三世竹本大隅太夫 三世鶴沢清六 部分音源へ (音源テープの試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
シンホニ― 壺坂観音霊験記 沢市内〜山の段 三世竹本大隅太夫 三世豊沢団平(SPレコードデジタルアーカイブ 京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター) 全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定 注:4代大隅の扱い)
シンホニ― 近頃河原の達引 堀川鳥辺山 三世竹本大隅太夫 三世豊沢団平 音源へ
シンホニ― 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 三世竹本大隅太夫 三世豊沢団平 部分音源へ 全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定 注:4代大隅の扱い)
放送記録
6回 昭和25年3月14日 解説:木谷(蓬吟)三世竹本大隅太夫の「壺坂」
29回 昭和25年5月2日 解説:安原(仙三)三世竹本大隅太夫の「鰻谷」
51回 昭和25年7月3日 解説:安原(仙三)清八(鶴沢)先代大隅太夫と先代清六
107回 昭和25年11月23日 解説:高安(六郎)大隅と三世団平の「堀川」
213回 昭和26年7月3日 解説:安原(仙三)三世竹本大隅太夫の「壺坂」
400回 昭和27年7月7日 解説:吉永(孝雄)三世竹本大隅太夫の「堀川」と「陣屋」
405回 解説:安原(仙三)三世竹本大隅太夫の「堀川」
482回 昭和28年5月24日 解説:大西(重孝)三世竹本大隅太夫の「壺坂」
略歴
三世竹本大隅太夫は、安政元年順慶町の木島屋といふ鍛冶屋に生れた。
十八才のとき 五世竹本春太夫の弟子となり、春子太夫。
明治十七年に、竹本弥太夫一派が文楽座から分れて彦六座を起したとき、この春子太夫も加はり、豊沢団平がその三味線をひくことになった。
団平の名とのつり合ひ上、三世大隅太夫をつぐことになり、明治二十年、団平の作った「壺坂」を語って好評を博した。
大正二年、台湾に渡り、病を得て その年の七月三十一日、六十歳でなくなった。
大隅の精進
大隅の精進に関しては「浄るり素人講釈」に詳しく述べられてゐるが、自分の経歴については明治四十二年に出た「浪速演芸家談叢」にこまかく語ってゐる。
本名を井上重吉と言ひ、大阪順慶町二丁目の木島屋と言ふ鍛冶屋さんに生れて居ますが、堅気な兄と違って鍛冶屋は大嫌ひ家の持てあましものであった。十六七才の頃、新町焼と言ふ家事があって、船場一帯が焼けた時、重吉さんの家も全焼になって松屋町へ引越し、鍛冶屋の傍ら、金物屋を始めたもので 仕事嫌ひの大隅は金物屋の方を手伝った。処が家の眞向ひが浄るりの稽古場なので毎日 デン\/やって居る。
大隅太夫の祖父も太夫になった事があり、父も素人浄るりを語ったと言ふ血筋なので、その浄るりの声が聞えて来ては堪らない。
家人に内証で三味線師匠の多八さんにすぐ弟子入りをした。この多八さんが、「お前さんなら勉強次第できっと物になる」とおだてたものだから、無我夢中で稽古をした。所が段々と慾が出て多八師(後の勝鳳)だけでは物足りなくなって、家を抜け出しては あちらこちらの稽古場を廻り、果ては、親、兄の意見も馬耳東風と聞き流し、町内のお年寄に呼びつけられて危く勘当迄ゆくところだったが、しまひには父の方が我を折って「それ程好きなら仕方がない」と反対する兄の方に内しょで当時春太夫へ弟子入りする束修のお金を渡してくれた。それは明治四年 大隅太夫の十八才の時である。親の有難さをしみじみ味はひつつ師匠の家に通った。
この春太夫には、後の攝津大掾を始め、沢山の弟子があったが、取り分け大隅太夫を可愛がり 翌五年十九才の時 春子太夫とつけてくれた。所が悪遊びをした為に病気になり、声はぴったり止ってしまひ、顔は今迄と打って変って見るかげもなく、浄るりどころのさはぎではなく 大隅太夫は世の中がつく\/いやになったといふ。その内病気も次第によくなり、声も少しづつ出て来たので 病気でしんだと思ひ、一大決心のもとに芸道に唯々精進をした。
さてそれから稽古に身を入れたおかげで廿七才の時に序切、廿九才では大江橋北詰の岸で「本蔵下屋敷」を師匠の春太夫や湊太夫、古靱太夫に久太夫、駒太夫と言ふ大一座の中で臆面もなく語ったのだ。と大隅太夫は自分で語って居るが、是は一寸おかしい。何故なら廿九才の時は明治十五年になり、師匠の春太夫も湊太夫も明治十年に亡くなって居る。古靱太夫も明治十一年に御霊の土田の席で殺されて居る。廿九才と言ふのは大隅太夫の記憶違ひだろう。
明治十七年一月 当時松葉屋広助の素人連中に彦六社と云ふ有力な素人団体があって 連中の口利きの灘安が博労町の稲荷の境内の芝居小屋を買ひ受けて 彦六座と言ふ名で開場し、「菅原」の通しを出した。二月には、前 先代萩、中 鎌倉三代記、次 文覚橋供養、切 吃又で大入りを取ったので、地の利の悪い松島文楽座は一向入らず、中心の御霊へ引越すことになった。
彦六座も七月迄打ち通し、文楽座に負けずに 小屋を改築して対抗する。そして九月に華々しい一騎討ちが始まった。所が妙ないきさつから 越路と団平との奥さん同志のいがみ合ひもからんで 文楽座の豊沢団平が彦六座の立三味線となり、彦六座の立三味線であった五世豊沢広助が、文楽座の立三味線となってしまった。彦六座にとっては殊に大隅にとってはこの上ない幸であった。
彦六座の顔ぶれを見ると、殆んど文楽座に対する不平党で固められて居る。即ち越路太夫と紋下を争った盲目の住太夫、駒太夫、源太夫、朝太夫、春子太夫、座主の柳適太夫、三味線の團平、新座ェ門、人形の才冶である。
この彦六座の改築は大阪の寄席や芝居小屋にとっては 一大革命で、それ迄は、大抵ござを客席に敷いて居たのが、浄るり小屋の有様でした。それが始めて畳を入れ、夏は藤むしろ、冬は毛氈を敷いた。
さて團平は始め柳適太夫を弾いて居たが、大隅太夫が是非日本一の團平に三味線を弾いて貰ひたいと懇願したので、團平も「うん弾いてやろう。しかし春子では弾けんから」と言ふので、十一月の國姓爺の三段目を語って大隅太夫の名をつぎ、その襲名興行から團平は大隅を弾く事になった。
この國姓爺の三段目は地色と言って 地合でもない 詞でもない一種の語り口の多い皮肉なものだが、團平も意気張り上げ、是非とも充分語らせようと言ふ腹だから、其の稽古のむつかしい事、大隅もここを先途と一生懸命稽古をした。
初日の間際にすっかり声をつぶしてしまひ、大阪病院へ入院したが治らない。大隅は口惜しくて\/舞台を思ふと夜も寝られず、到頭その興行は源太夫が代役を勤めた。然しその後はよくこの團平の火の出るやうな稽古に堪へて あの名人大隅太夫となった。
そして明治廿年二月には大隅の名を永遠に残した「壺坂」を團平の絃で語り 非常な大当りで丗五日間打ちつづけた。それから團平が明治丗一年舞台で倒れる迄 十五年間團平に叩き込まれて 攝津大掾と共に明治期の義太夫界を代表する名人となった。
大隅の最も評判を得たのは「壺坂」「堀川猿廻し」「千本桜の鮓屋」「太功記十段目」「先代萩の御殿」「伊賀越の岡崎」「志渡寺」「合邦」「日向島」。
台湾の大隅
さて、ここで大隅の最後について。
大隅が台南で病死する数年前、名古屋で興行中突然中風にかかり、一時休んでいましたが、再び出演した時には以前の面影はなく 語って居る間も絶えず涎が流れ通しで 見るも気の毒な衰へ方で浄るりにも光彩なく さうでなくても彼の難声が一層聞き苦しい状態であった。そこで人気が急に落ち、兎角人気を第一におく興行主から次第に敬遠されるやうになり 大島と云ふ人からはっきりと次興行から暫く休養してほしいと言ひわたされた。大正二年四月、菅原の通しが出た時の事で大隅太夫は「道明寺」を語ってゐたが、今の大隅当時の静太夫が用事があったので遅れて来ると 風呂から上って来た大隅は壁の方を向いてぼっそりと「俺 ことわられた」と云ひ、「どないしょう」と相談をかけられた。「旅にいきましょう」「然しお前だけではどうにもならん」「ぢゃ錦はんも連れて行きませう」と言ふ事になり、愈々台湾行きにきめたが、どうも声が苦しいので堀内博士や高安博士に見て貰ふと皆「行ったら死にに行くやうなもんや」と止めたが、家の経済も苦しく遊んでも居られんと、忠告を押切って 六月廿五日頃、神戸をたった。
基隆に丸中と云ふ心安い料理屋があったので、そのつてで先づ基隆に着いた。向ふでは大隅太夫が来たといふので大騒ぎだ。大隅太夫をシンに錦太夫が二枚目、静太夫が三枚目で 台北で一週間、台中で三日間有栖川宮の御不豫で 最後の一日は休んで台南へ行き三日打った。又台北へ帰ろうと汽車に乗ったが、前日からの大雨で 朝十一時頃出て、駅で三時間も待ち やっと出たが水が出て汽車が水につかって前へも行けず ダークまで来ると台北へ行く鉄橋が落ちてしまった。帰ろうとするとあとから来た貨物列車がひっくり返ってどっちへも行かれず、一日汽車の中で泊ってもとの台南へ引返した。
帰った晩から大隅は高熱が出る。附近の医者でははっきりしないので台南病院の院長さんに来て貰ふと これは赤痢でほっておいてはいかん。一時も早く入院させんといかん と言はれ、午后四時頃 三階から弟子二人で抱くやうにして下へ降ろし自身歩かれる積りで立上ったが、足が動かぬのでたんかに乗せて入院させ 内地へ早速電報をうった。その晩は静太夫等の介抱ですっかり元気をもち直しほっとして、静太夫は報告かたが 仙左ェ門 すなはち三代目団平とお礼興行に台北一日、基隆二日と打ち、翌日又急行で病院へ帰った。病院へ戻って見ると、大隅は機嫌よく、存外よささうなのでほっとしたが、院長は一同を別室に呼んで「もう師匠はあかん。覚悟しなさい」と宣告したので、一同びっくりした。
大阪から 下駄屋をして居た大隅の長男と二男が来たが、大隅は丗一日の晩九時頃 乳が飲みたいと言ふので 飲ませると暫くして苦しみ出し、遂に息が切れた。(吉永)
報いられぬ大隅
三世大隅太夫は五世春太夫の弟子だ。「ほんまの太夫は春さんで終いや」とよく二代目団平が云うていたその春太夫だ。この人は明治十年に亡くなったが、そういうた名人団平からも大隅はウント厳しい稽古をうけた ― ウント叩き込まれたという方がピッタリする程、死身の精進をつづけたお陰で、明治時代の大立者、立派な名人になった。
団平の稽古に及第さしてもろたのは第一に摂津大掾で、それに次いではこの先代大隅だったそうである。
ところで同じく名人というても、この両人の語り振は大分違って、大掾の穏健に比べて、大隅は深刻な味を多く持ってゐた。それは生来にもよるだろうが、一つはまた、その周囲の事情にも関係したと思はれる。忠実な妻君や、腕達者の門人等に取り巻かれて、円満な生涯を送った大掾と違って、大隅は家庭的にも又社会的にもあまり恵まれてはいなかったようだ。
ある日、舞台を終えて帰宅して見ると、なんと、日頃から後生大事にしていた大金庫の蓋が開いていて中身が空になってゐる。「俺は一体どないなるねん」というたかと思えば口からダラ\/と涎を流したのを、偶然傍に居合して、まのあたりその惨めな様を見た人から聞いたが、つまり誰か内輪の勝手知ったものが、鍵を盗んだか、合鍵でもしたのか、スッカリ虎の子のようにした臍くりを持って行かれたので吃驚して軽い脳溢血を起こしたのだ。
私が親しくなったのはそれより後のことで、絶えず高血圧であり、糖尿と腎臓を患ってゐたが、種々と心の悩みがあるので病気も中々一寸にはよくならない。ところがある時、「先生、お願いですから、どうか麦飯の代りに少時の間米の飯を喰べさして下さい」どうしてと訊ねると「実は今後日向嶋を語ることになりましたが、他のものとちがい、景清のような大物はどうしても米を喰べねと語れません。そのため死んでもよろしい」と云います。別に私が勧めたわけでもなく誰から聞いて麦をやっていたのだ。米位で死ぬことは絶対にないが、それより熱演の方がズット危険なのだ。本人はそんなことは何もわからず、ただもう大曲をうまく語るためには生命もいらんという悲壮な意気込であった。
同様な眞剣な態度は大正二年夏 台湾へ乗込む話が出来た時だ。何しろ時候柄ではあり、性の悪い病気をもって熱帯地の台湾へなど行くのは、地獄の釜の中へ飛び込むようなものと切に思い止まるように勧めたが、「今私がこれを中止すると、一座三十人の者が餓死します。私は命を放っても、皆のためなら仕方おまへん」と断然私の忠告をしりぞけた。そして台湾へ着くとスグ尿毒症で斃れた。
芸のため一座のためには己が一命を捨てても顧みなかったその信念の強さには頭が下ると同時に、切迫つまった窮状には涙なしにおれない。
意志の強い融通のきかぬ片意地でもあり、几帳面なところもあって、大体は寂しい生涯であったらしく、そこで一代の傑作壺坂の沢市がよくはまった。
堀川の(一)
女郎お俊の兄与次郎は、普通よく阿呆にしてチャリのように話されるが、大隅はそうではなく臆病ではあるが正直な律義者で、母親には孝行妹には情の厚い 好人物に語っている。
母親は盲で患っておる。娘お俊の身の上や生活の苦について心配はしているものの、沢市程に深刻な悩みを持ってゐない。
それに比べて軽く扱われています。或は与次郎をシテに、母親をワキのつもりであったかも知れない。
鳥辺山の唄は稽古に来た近所の娘おつると掛合で唄うので、それをハッキリと分けてやる人もあるが、ここでは「女肌には」の出はゆったりと大きく、後はいくらかよわ\/となって、「雨にしおるる立姿」までをおつる「男も肌は」を老母の気持でシックリとやる。あとはそう一々区別せずに「どこに取って」を多少軽く「鳥辺の山は」少しシックリという風に単調を避けて稽古の感を出すようにして居る。「あの面白さを見る時は」の母親とおつるの語分けは無論丁寧だ。
堀川の(二)
「堀川」のレコードは 明治四十二年に録音されたもので、鳥辺山と猿廻しとが吹込まれてゐるだけである。
鳥辺山は「女肌には」から「哀れにも又いぢらしし」までで、所要時間、十分十秒 大抵の人は これが十五分位はかかるものだ。大体此の大隅太夫の語り口はテンポの早い方だが、それでも十分位とはいささか早いかと思はれる。
尤もレコードの事だから 多少早目に語ってゐるかもしれない。清八さんにきいて見ると、與次郎の戻りの処は 確かに実演より少し早い様に思ひます。と云ってゐる。
此の「堀川」の鳥辺山は 薗八節より取ったもので、義太夫の方では、稽古に来て居る娘のお鶴と與次郎の母との掛合になってゐる。それで娘と婆を分けて語る様になってゐる。例へば、「女肌には」から「立姿」までが娘、「男も肌は」から「色盛りをば」までを婆「恋と云ふ字に身を捨小舟」をお鶴、「どこへ取り付く島とてもなく」が婆「鳥辺の山はそなたぞと」が娘、とかう云ふ風に、分けて語る。
ところがこれを殊更に娘の声、婆の声にして語る人があるが、娘の語る処は自然娘、婆の語る処は、自然婆になる様、かう節付してありますので、殊更娘、婆にせねばならぬ訳はないと思ひます。此の大隅のを聞いて見ると、殊更娘の声にしなくても娘、婆に区別出来る様、語ってゐるのは 流石に大隅らしい行き方であらう。
掛合の中の「あの面白さを見る時は」や猿が帰って来て、「オオ徳よ今戻ったかよ」の辺は何とも云へない情合がある。
此の大隅は、婆が特によかったと云ふ事で、野崎村の婆でも此の堀川の婆でも、此の婆で聞き手を堪能させたと云ふ。(安原)
壺坂
壺坂と云へば大隅、大隅と云へば壺坂、それ程有名な大隅太夫の壺坂が幸ひにレコードに残った。その大隅の壺坂のレコードは二種類ある。その一つは明治三十八年頃の吹込と想像される米国コロンビヤの十二寸盤七面で 三味線は三世鶴沢清六。此の時代は大隅太夫は文楽座に出勤してゐた。
丁度摂津大掾が六世春太夫から摂津大掾を小松宮より受領してその披露の興行に大隅太夫が堀江座より文楽座へ入座して 此の時、名物の壺坂を語った。それから約四年間文楽座へ出勤した。此のレコードは、その時代のもの。此のレコードは 澤市内が全部録音されてゐる。此のレコードを入れて約一年位で 大隅は文楽座を出て又堀江座へ走って了った。そして合三味線には豊沢仙左ェ門、後の三世豊沢團平がなった。此の時代に日米合同のレコード会社である処の 日米蓄音機商会が出来て、此のレコードに大隅は三世團平の三味線で又壺坂を録音した。これは当時から大変評判になったレコードで、蓄音機会社でも最高級品のシンホニ―レコードとして発売した。これは昭和になってから電気再生したものである。
山の処を省いて観音様の出になる「如何に沢市承れ」から段切り万才唄迄が入ってゐる。
ツレ引は当時の豊沢仙之助、後の六世豊沢源吉。
鰻谷
大隅太夫の浄瑠璃は、大変ぎこちない様に聞えるが、聞けば聞く程味の出て来る浄瑠璃で、決して作って語ると云ふ事をしなかった人だそうだ。本当の人間の心を語ると云ふ事に重きをおいて、女の声でも、子供の声でも絶対に声色で語らずに地声で語った。現在の文楽座の古老の人は、「大隅さんの鰻谷はこんなものではありません。もっと\/好いものでした」と云ふ。然し「よう聞きやァ」とか「二度の殿御」とか、又これからお聞かせするお半の詞や「徒髪にとめ伽羅の」などは大隅そのままであると云ふ事だ。
「鐘諸共に忍び出て」は之亦大隅独特のものであったと云ふ事だがレコードの「忍び出で」は実演の時は比べ物にならぬ程よくないそうだ(安原)
対談鰻谷 対談 安原仙三 鶴沢清八
安原
三世清六の鰻谷のレコードは明治三十九年二月のレコードでありまして 雑音の多いレコードでありますけれども、大隅の鰻谷のレコードは他にないのでございますから、何卒ご辛抱願います。
清八さんがお越しになっておりますから、どうぞ一つ そのときのお話を承りたいと思います。
清八
そのときは明治三十七年の九月二十五日初日で、御霊文楽座にて公演のときで とてもその大隅さんの語り方というものはよいものでございまして、私も余りいいので毎日聞かしていただきましたが、またこの鰻谷のまくらに“となり座敷”という文章があります。これがウキギンというふしと、ハルブシというふしと 二つに分かれ、ハルブシの方が大隅さんの語られる方です。ハルブシの方でづづとゆくと三味線もひきにくいし語る方もむつかしい それがやはり名人の師匠のふしであるそうです 今までやっているのはウキギンが多いのです。ウキギンとはどんなものであるかというと“となり座敷に”こういうのです。大隅師匠の方は“となり―い”とはハルブシで それだけの違いです。ハルブシの方はとてもむつかしいのです。
この言葉の間に八郎兵衛が、“早う行け\/”とおこるところがある。そこで銀八が答えるところがある。その附近のいいことといったら、とても\/ このレコードは入ってあるのがよくないのです。もっといいのです。これは私が保証しておきます。それで八郎兵衛を銀八との大隅さんの仲々いいところでありましたが、これについて私の師匠も鰻谷ができにくくて、私共難儀されたように聞いております。
安原
次は鮓屋に移ります。この大隅さんの鮓屋は大変に足取が速かったように承つておるのですが、レコード聞きますと、そんなに早いようにも思われないのですが
清八
このお方は殊にさわりはゆっくりしておりました。この鮓屋ですね。明治三十八年の三月一日初日 やはり御霊文楽座でありました。
この鮓屋のよかったことといったら眼がさめるほどよかったのです。それは人物に片寄らず 維盛さんは維盛で 語られる役者も、みんないいし 女形もいいし おさともいいし さわりのおさとの“惚れられうか”とその“か”のよかったこと。梶原さんは梶原でよかった。そやよってにこれは とてもよかった。
安原
次は、熊谷陣屋のおくでございます。
清八
このときは明治三十七年の六月七日、初日でありまして、やはり御霊文楽座でありまして、この段はとても大隅さんはよろしゆうございました。今聞かしてもらいますレコードのところはおくの方であります。「鐘は無常」のというように聞いております。そのときは、このおくの方でですね 宗清が現れてですね。その勢といったらとてもおそろしいほどえらい勢で、やはり大将義経さんがですね。大概みなふけでやりますけれどもこのお方は血気盛りです。この大将なればこそ、この時間に御存じの通り鵯越の逆落しに自分で馬に乗って下りたんですね。これは聞いておりましてとてもそういう勢に語られたが、とてもいいと思いました。相模もよろしいし、熊谷もよろしゆうございました。
安原
次に 清八さんが鶴太郎時代に師匠の清六さんと一緒に壺坂の萬才唄を引いていらつしやつたわけですが、この話を一つお願いします。
清八
これには、沢山お話がございます。この壺坂は明治三十六年五月一日が初日で、このときに私の師匠は前から出ておりまして それで大隅さんの方へ参っておつたわけです。このときに大隅さんと一緒につらつて入って来たんです。このとき七十五日間打ったのですが、このとき私の話があります。
それは連れていただきまして 師匠さんのばちが鋭い 大隅さんがあの勢でやったので 私はこれはとても 音せえへんくらいに思っておったのです。このとき大隅さんが 大日というのが私の姓ですが、「大日 お前どこへ隠れている いい加減にでたらどうや」と言う 何言つてはんねと思ったが、このお方は何でも言いたいことを言うお方だ。なるほど私が至らんから、こういうことを言うのも無理はないと思って 師匠と私が連れて掛声してひいた。このくらいせんととても音が出ませんといって大笑いしましたが、二三日しまして「大日 大分お前の音が大きくなって来た」と言ってくれたので、私もそのとき始めて大隅さんというお方は言いたいことをおしゃる方だけれども、考えれば親切なお方だと知りまして 未だに感謝しております。
安原
清六さんは 大隅さんについてずいぶん苦労をされたんでございましょうね。
清八
師匠清六さんはですね。大隅さんを初めて引かれたときから、とても死ぬほどの苦労をなさったそうです。それでその筈です。名人団平師匠がですね 大隅さんを子供扱になさったから、今度は反対に私の師匠が子供扱にされたのです。それを師匠は何にも云わんと胸に押えて 私があかんのや とじっとしてああしてなさったよてに あれだけの三味線ひけたのです。今日であったら大名人ですわ 私の師匠は、私の師匠みたいなお方は 三味線引く者の芸の修行のよい手本になると思います。