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名人のおもかげ資料 七世野澤吉兵衛

使われた音源 (管理人加筆分)
ニッポノホン 伽羅先代萩 政岡忠義の段 竹本土佐太夫 七世野澤吉兵衛  音源
キング 三十三間堂棟由来 平太郎住家の段 竹本土佐太夫 七世野澤吉兵衛

放送記録
110回 昭和25年11月29日 解説:大西(重孝)七世野沢吉兵エの「柳」と「御殿」

      

(七世野澤吉兵衛)
七世野沢吉兵エは明治十二年 大阪横堀六丁目に生れ、十三歳で七世野沢兵一と名乗った。翌年五月 稲荷彦六座で「玉藻前」の大序を弾いたのが始め。のちに四世市治郎、三世吉三郎を経て、大正十五年九月には、三味線の名家野沢吉兵衛の七世を相續、明治三十八年以来竹本伊達太夫(後の土佐太夫)の相三味線となり、大正四年、伊達太夫の後を逐つて近松座から御霊文楽座に入り昭和十二年五月まで三十数年の長きに亘り、名コンビを謳はれた。昭和十七年四月、六十四才で亡くなった。鈍、根といふ言葉がある。鈍とは物覚えのわるい、不器用なものゝことをいふのだが、不器用人でも根次第一心に勉強すれば立派なものになるといふ。七世吉兵衛は、この譬へにそのまゝ当る人だったといふことである。吉兵衛が六世の弟子に入った当座は文字通り不器用な性で、こんな人間が、果して将来ものになるかどうか−師匠は大きな疑問をもっていた。
 この七世吉兵衛当時の兵一は汽船乗りの子供として生れ貧乏が身にしみて居た上に芸人となるからにはどうしても一人前の人間にならねばならぬと、親も子も一緒になって、勉強した。弟子入りして間もない十七才から二十二才といふ丁度修行に一番大切な時期に、師匠が東京へ行ったので師匠を失った兵一は自分の働いて居た稲荷座、堀江座の先輩から多くの芸を学びとって、一生懸命に精進した。名人団平の教へを受けて、植畑の師匠といはれた三世団平からも手をとって教へられた。十八の時「躄仇討」の立端場「餞別」を語ってゐた新靱太夫の相三味線広作が病気の時その代役をしたのを団平から認められて、その次の興行では、団平のお声がゝりで「菅原」の「車曳」を弾いた。
 家が貧しかったので御多分に洩れず家では素人の稽古人をとつて居た。芝居で聞いて来た立派な芸に惚れ込むと、どんなことがあつても自分のものにしないではおかない。たとへば誰それの「野崎」が面白かつたとなると、もうそれが頭の中に一杯になる。頭の中にくり返し\/家に帰つて来て、玄関を開けると、しきゐを跨ぐ前に、今日は「野崎」を稽古してゐる連中さんが来てゐるかどうかを見定める。もしその人が来てゐないと、家には入らずにもう一度暗い街を、一廻り二廻りもして、頭の中の「野崎」が整理される迄は家のしきいを跨がなかつたといふ。
 かうした修行の結果、不器用な腕がメキ\/上達して 二十二才の時には、三段目語りの新靱太夫の相三味線となつて居る。師匠の六世吉兵衛が六年間の旅から大阪へ帰つて来た時には兵一のこの躍進ぶりに全く驚かされた。間もなく野沢家には由緒ある市治郎の名が許され、明治四十一年三世吉三郎を相續した時には、将来、七世吉兵衛になることを約束されたのである。
 こうして苦労を重ねて大成した三味線なので、弟子に対する稽古は微に入り細をうかがつて、誠に厳しいものであつた。「アーそこがいかん、その呼吸がわるい」と仲々渉らない。大がいの若いものなら決つて途中で腐つてしまふ。ところがそれを見てとると吉兵衛は、「腐りなや腐つた時は芸があがつているのやで」と又、励しにかゝる。又その反面その稽古ぶりが巧みで、厳しい仕込みの中に、団平さんはこう弾かはつた大掾はんはこう語らはつたと、名人上手の話に移つて行くのが、とても楽しみなものだつたと、傳へられる人間の立派さもあつて、今もこの人の徳を慕つているものが澤山ある。土佐太夫が昭和十二年五月「帯屋」を語つて文楽座を引退した時、吉兵衛が進退を共にしたのは、老後のことゝ、土佐に別れるとだんな太夫を弾かねばならぬことになるかを慮つて、要は「吉兵衛」といふ名跡を大切にした行動だつたといはれて居る。鍛錬のあとhsおそろしく最後迄、芸に狂ひといふものがなかつた。

(先代萩)
「先代萩」御殿一般には飯焚きといはれてゐるところのレコードは、レベルにはまだ野沢吉三郎といふ名になつてゐるから大正十四五年の古い吹込みで、土佐太夫と共におつとりとした金襖ものの品格をもつている。
( どりや拵へようと−風_の先)
「三十三間堂棟由来」平太郎住家の段は昭和十二年頃の吹込みで、はじめは平太郎の女房お柳が実は柳の性であることを物語る件りで、土佐太夫特有の語り口が、人間ならぬ非情の性の情愛といふものを面白く聞かせる。
( 傳へ聞く−姿は見えずなりにけり。)
 次は木遣音頭の件になる。吉兵衛のケレン味のない美しい音色が充分楽しめる。
( 早東雲の−ヨイ\/ヨイトナ)
(大西)