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名人のおもかげ資料 四世野沢勝市

使われた音源 (管理人加筆分)
ビクター 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 豊竹つばめ太夫 野沢勝市

放送記録
283回 昭和26年12月4日 解説:大西(重孝)四世野沢勝市の「御所桜」

(勝市) 四世、野沢勝市は、明治十五年、大阪、靱に生れ、十四才の時、三世野沢勝市(後の初代喜左ヱ門)に入門。はじめ野沢勝太郎と名のり、十六才の時、御霊文楽座に出演中の五世、鶴沢勝鳳に預けられたのが、文楽座に出るはじめとなる。明治四十二年、四世勝市を相続、長く七世竹本源太夫の相三味線をつとめて居たが、昭和二年から今日の八世竹本綱太夫である当時の二世豊竹つばめ太夫の指導に当って居たところ、昭和六年一月五日、五十才で歿。
 四世、野沢勝市が亡くなったのは、五十才であったが、芸道にたづさはるものは、まづ五十才をこえて始めて真の力を発揮すると云はれて居るのに、余くこれからと云ふ時にボッコリなくなったのは惜しい事である。それも正月興行を眼の前に控えて、その時の勝市の役であった。「戻り駕」の稽古が夜更けになって風邪をひいたがもとで、急性肺炎をひきおこして、遂に立つことが出来なかった。
 勝市は、文楽座生え抜きの三味線ひきであり、亡くなった時の顔付けは、紋下格の六世友治郎、庵格の二世新左ヱ門を除くと、今の清八の叶、広助、清六に次ぐ位置で中軸へ座って居た。若い時は、非常な勉強家で、急場の代り役と云ふと、きまって彼がひっぱり出されて、一日の中に何度も床に上ったと云はれて居る。楽屋では引っ張りを着て居たので、その引っ張りを脱ぐ隙もなく、そのまゝ三味線をひいたこともあったと云ふ。今日と違って、その頃は、三味線ひきの数も多かったのに、彼が重宝がられてゐたのは、それだけ日頃の勉強振りが認められてゐたのであろう。
 こんな風で自分の腕に恃むところがあったのだろうか。先輩の人達にも常に対等の附き合ひをして居り、この間亡くなった六世鶴沢友次郎に対しても、敢へて師匠と云はず、本名の山本さん\/で通して居た。今も楽屋の人々の間には”兄さん”といふ言葉がある。師匠といふには余り位置が違はない、と云って、対等の呼びかけは出来ない、そんな時に”兄さん”と呼ぶが、それが相当の年配者の間に使はれて居ても少しもおかしくない、そればかりか、芸にたづさはる人の言葉だけに、どこか若やいだひびきがあって、私共は面白いと聞いて居るが、これが勝市から使はれ出したと云ふ説もある。本人は案外、負けん気で、この言葉でうまくカムフラージュするつもりで用ひてゐたのかもしれない。
 前に、七世源太夫と袂を分ったお話を申し上げたと思ふが、源太夫が「楼門」を語ることになって、この一段だけ、仙糸に弾いてもらひたいと云ったが、これが勝市のきかぬ気を刺戟して、遂にものわかれとなったので、本人に今少し雅量があれば、次の段からは又源太夫の相三味線となってゐたかもしれない。この経緯から、なんでも源太夫に劣らない太夫をつくらねばと云ふ心があって、やがてつばめ太夫、今の八世綱太夫の三味線をひくやうになってからは、陰になり陽になり、つばめ太夫をかばってゐたと云ふ。
 勝市の芸は泥くさいと云ふより、コッテリしたところがあって歌舞伎で云えば、宗十郎か、先代秀調といったところであろうか。
 文楽座が四ツ橋で開場した昭和五年の第二回の興行に、久し振りで「勧進帳」が出て、シンをひく道八に対して、勝市が冨樫をひいた時、少しも見劣りがしなかったと云ふ評などは彼の名誉と云はねばならない。
(大西)

(御所桜) 「御所桜堀川夜討」は、天文二年(1737年)に竹本座で初演されたもので、文耕堂と三好松洛との合作になる五段の時代物である。弁慶上使の段は、その三段目に相当する。源義経が梶原景高のために 讒訴されて、兄頼朝の討手を受けて居るが、義経の妻卿の妻は、平家の一族、平時忠の娘で、今妊娠の身体を乳人侍従太郎の館で静養して居る。もし義経に二心が無ければ その証拠として 郷の君の首を討って差し出すべしと 謙倉の上使、景高から度々の催促があり、弁慶は首受取りの使者として侍従の館へ来るところから始る。
侍従夫婦は彼の腰元信夫を郷の君の身代りにしようとして、その女であるお物師へ、今日の裁縫使 おわさに自分達の苦しい立場を打ち明けるが、おわさは肴じない、それは顔もしらず名もしらないが故郷でただ一度契った事のある男との間に出来たのが、この信夫であるわけを語って、その夫に逢ふまではと断る。此の様に奇しき縁を物語る件が、さわりとして一般にしられて居る。
( 娘がきくお恥しき昔話… 名のり合ひするそれ_は、 )
 先程の「恋人もおどろきて」のところに、大へん立派な手がついて居り、人形も盛んに動くが、この間亡くなった六世鶴沢友次郎が、これは詰袖を着てゐる女の手ではない。別にそれに適しい手があると語ってくれたことを、今レコードをききながら思ひ出す。
( 蚤にも喰はさぬ大事の娘…ヲゝサ書写山の鬼若丸だ)
 最初、弁慶が上使として登場した時は、黒の大紋に烏帽子といふ出立ちであるが、正面の障子を左右にひらかせて、信夫を刺した刀をひっさげた二度目の出は、大紋の両袖をはねて、錦の着付に、大団七にといふかしらに いが栗頭といふ 非常にグロテスクな姿に変わって居る。
これが十六年以前、つい、闇夜の転び寝に、子まで設けるはめとなったおわさの恋人、お稚児さんだったと判るのだから、作者の仕組んだ趣向に、ついほゝゑましくなる。真紅の縮緬に、くじゃくの羽根を縫取りした袖は、母の形見で、戦場で、危き難をのがれたのも此の袖のおかげ、假ねの父親と名のり合ひする証拠となったのも此の袖と、母の慈悲を感謝する件り。
(大西)