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名人のおもかげ資料 四世竹本雛太夫

使われた音源 (管理人加筆分)
トオア 日吉丸稚櫻 駒木山 四世竹本雛太夫 豊澤新造
トオア 生写朝顔話 宿屋 四世竹本雛太夫 豊澤新造
トオア 近頃河原の達引 堀川 四世竹本雛太夫 豊澤新造 音源
トオア 絵本太功記 尼ヶ崎 四世竹本雛太夫 豊澤新造

放送記録
194回 昭和26年5月15日 解説:大西 四世竹本雛太夫の「日吉丸」と「宿屋」
309回 昭和27年1月18日 解説:吉永 四世竹本雛太夫の「堀川」と「尼ヶ崎」

        

 四世竹本雛太夫は明治四年 大阪坂町の梅咲といふ料理屋の子として生れた。はじめ喜鳳(もと勝鳳)について浄瑠璃を学び、梅扇と名乗ってゐた。十九歳の時、竹本組太夫の門に入り、組榮太夫と名乗って彦六座に出演、明治二十七年九月に五世住太夫(越太夫)幼名雛太夫の四世を相続しました。明治三十八年九月に堀江座が開場し、やがて近松座となって没落したが、雛太夫は引きつづき この両座に出演して、大正十五年八月 五十四歳で亡くなった。

四世竹本雛太夫は、師匠が文楽座から彦六座へ移ってからの入門で、十九才の時 「西国三十三所花野山」の清水寺の件りで「大佛殿」を語ったのが初舞台といってゐるから、これは明治二十三年の五月であろう。
只今の七世広助がまだ本名の竹三郎の頃 三味線を弾いて初舞台を一緒に踏んだといはれて居る。後にその竹三郎が文楽座へ入ってから、雛太夫を呼び入れようとしたが、ある事情から それが実現しなかったといふ。かうして 雛太夫もまた堀江座から近松座へと、この彦六系の芝居と運命をともにした。堀江座の全盛期時代には 三世大隅太夫のもとに 後に土佐太夫となった伊達太夫、春子太夫、大島太夫、後に六世弥太夫となった長子太夫らが健在で、雛太夫はこれらの太夫につぐ位置に座って居た。錣太夫や角太夫らはその後輩になる。(大西)

(組太夫)師匠の組太夫はキビ\/した浄瑠璃を語ってゐた人で この道の若い太夫に多くの崇拝者があった。
雛太夫もなんでも達者に語ったが、美しい声で「朝顔の浜松小屋」「忠臣蔵六段目の身売り」「白石噺の揚屋」「鳴門」「酒屋」「新口村」「明烏」のやうな世話ものがお得意で、「太功記十段目」「二十四孝の十種香」「日吉丸駒木山」のやうな時代ものにもよいものがあり、特に景事ものが優れてゐて、そのシンを語る時は、錣太夫や角太夫らが二枚目をつとめたといふから この辺にこの人の芸風がうかがはれる。「ほていさん」といふあだ名がつくほどで今日その写真を見てもポッテリとした下ぶくれの福々とした相で、このために世話もの愁嘆物を語っても 力がのって来ると、その顔が笑ってゐるやうに見えて 身につまされて聞いてゐる聴衆のイメージを損じることがまゝあったといふのは 御愛嬌のある話だ。(大西)

 四世雛太夫は六世組太夫の弟子で、初舞台は明治廿三年五月の「西国三十三所花野山」の中の清水寺のうちの大佛殿の段である。

(組太夫)師匠の組太夫は声は悪声の方だが、なか\/腹の強い人で、きび\/した浄るりを語ったが、後年大隅太夫と共に彦六座の櫓下になった事もある人で、弟子に対しては厳しく、今の山城少掾がこの組太夫の安達の三枚目をきいてびっくりされたと書いて居る。芸風の違って居たせいもあったのか、雛太夫はこの師匠の組太夫よりも却って、五世住太夫に可愛がられて、五世住太夫の前名、雛太夫をゆづって貰ひ、明治廿七年稲荷座で伊賀越の狂言の時、四世雛太夫と改めて関所の掛合に丁度その時、書卸しの日清戦争の滑稽を語って人気博した。
 面白い事がすぎて 滑稽なことを人に話しては楽しんで居た。明治廿八年の十二月、住太夫師匠と中国を巡業して 呉にいった時、興行が夜で、晝は宿にころ\/して居てもつまらないので松島艦を見物に八助を誘って行った時、知らぬ内に鎮守府の構内に迷ひ込み番兵に目をむくほど叱られて命からがら逃げ出し、抜道の藪かげの氷りつく川を素裸になって渡ってその晩から高熱を出したしくじり話など、後年面白をかしく話しをしては弟子たちを笑はせて居た。この父にしてこの子ありで 
(豊沢三郎)この雛太夫の子に豊沢三郎と云ふ三味線弾きがあったが、仙糸の弟子で仲々の茶目で喫茶店へ行ってもコーヒを半分以上ものんでから、テーブルの上にとまった蝿を殺してそっとコーヒの中に入れて、女給さんを呼んで「おいコーヒに蝿が入って居るぢやないか」と小言を言っては、又新しいコーヒとかへて貰って飲むと言ふやうないたづらをした話しをしては父の雛太夫を笑はして居た。
 雛太夫は芝居の傍ら、はじめ難波新地で女郎屋をして居た。後、笠屋町、太左エ門橋北詰北入る路地で芸者の置屋をして、秀鶴さんと今一人芸者さんを抱へて居たので、生活はのんびりして居た。後に文楽から誘ひの手があった時もことわって、彦六座、堀江座、近松座と 外ざま一本で通したのも、浄るりは生活のためでなく楽しんで居た為であろう。
若い娘さんを集めて浄るりを教へるのが好きで、女の弟子が十五六人もあった様で、雛駒さんや雛昇さんも、皆この雛太夫の弟子であった。朝から晝まで女の子を教へて 晝から連中さんの稽古になる。若い娘さん達のため、芽生會と言ふのを作って指導に当り、又字が大変上手で自分の家に會の役割を美しく書いた紙を貼っては楽しさうに眺めて居た。
そうして弟子達の床本の上書は 大抵雛太夫が書いてやった。大変温厚な人で、めったに怒るやうな事もなく、人に頼りすがられる方で、親類に天王寺に小政はんと言ふ顔役が居たせいもあるが、雛はんと言ふと一座の顔ききで 近松座のごたごたした時も雛太夫が出ると うまく収った。それで居て御自身は弱気なあかん気の人で、人からたのまれると、嫌と言へないたちであった。
 さて この雛太夫の特によかったのは、「忠六」の身売り、「白石噺」の田植に揚屋「鳴門」「酒屋」「新口村」「明烏」「重の井」のやうな世話もの、時代ものでは「廿四孝」の十種香の外「勘作住家」「嫗山姥」の八重桐廓話」「日吉丸」の駒木山城中「伊賀越」の岡崎雪降りなど堂々と語った。三味線は新造が好きで自分の相三味線にして居たが、連中さんに稽古の時は子供の三郎に弾かされ、三郎の弾けないのは自分が叩きで教へた。(吉永)

(駒木山城中の段)「日吉丸稚櫻」は今から百六十数年前の享和元年に豊竹座で書卸されたもので「絵本太功記」の作者である近松やなぎなどの合作したもの。日吉丸の出生から桶狭合戦迄の事を取扱ってゐるので、この外題がかゝげられてゐる。この駒木山城中の段といふのは、茶碗屋源左エ門の義子源太郎が木下藤吉に抱へられて堀尾茂助吉晴と名乗って侍になるが、その妻のお政の父、鍛冶屋五郎助は源左エ門を殺した当の相手をいふことが知れて 茂助は妻を離別する。侍の妻となって喜んだのも束の間のお政は夫を恋ひしたって来た無情をのべる。所謂クドキでこの一段の聴きどころの一節が、レコードにおさめられて居る。雛太夫は艶物語りといはれて居るが、流石に古い太夫だけに美声を売物にするのではなく「春の名残」と果敢なく死んで行く薄幸な女の情愛を聞かせて居る。
(さいぜんからのあらましは…       添はれぬ義理の離別とは)
吉田文五郎のこのお政がよかったといふお話がつたへられて居る。「春の夜寒に酒の一つはべ過して」と扇をつかひながら千鳥足で一間を出て来たところがよかった。
(あんまりむごいと…     お政は苦しき顔をあげ)(大西)

(宿屋)「増補生写朝顔話」宿屋の段は「日吉丸」よりづっと降った嘉永三年(今から百二十年近く前になります)に山田案山子の作ったものを翠松園という人が補筆した。熊沢蕃山の作だといはれる「露の干ぬ間の朝顔」といふ今様歌から想を得た浄瑠璃。蕃山を当て込んだ駒沢次郎左エ門が東海道島田駅の旅宿で 衝立にこの朝顔の歌の扇面がはりまぜにしてあるのを見つけて これはかつて宇治で契った秋月の娘深雪に与へたものであることを思ひ出す。宿屋の主人に この朝顔の歌を唄って暮してゐる盲女を呼び寄せてもらふと 果して深雪だった。自分の名を明かさず 扇に同じ朝顔の歌を書き記して 眼の治る薬を託して別れて行くのがその荒筋で これも哀れな女を主人公にした浄瑠璃である。雛太夫の「宿屋」のレコードは露の干ぬ間の歌から始まって居るが これは 三味線二挺で伴奏されて居る。いつもは決って琴が入るものだから これは珍しいと 文楽座の山城少掾に伺ふとこんなお話を聞いた。
「昔は琴など入れずに一人で 三味線で聞かせたものと思ひます 東京の四世文蔵師匠が「これつばめ 今の三味線弾きは 阿古屋の三曲などといって 琴や胡弓を入れて賑やかに弾いて居るが ほんたうは自分の三味線で 琴や胡弓の音を出すので『阿古屋の三曲』といふのだよ、琴や胡弓を弾かせて自分がツレ弾きをしてゐるやうなことでなにになる。今夜はおれが三味線のツレばかりで聞かしてやる」と『阿古屋』を弾かれましたが 実に結構で有難く聞きました」といふお答へでありました。

(露の干ぬ間…   一村雨の)

お聞きのやうになか\/古風な感じで 太夫の語り口にピッタリ合って面白い。しかしこの雛太夫の時代には琴入りが普通であったのだから このレコードを吹き込む時に適当な琴を弾くものが居なかったのだろうと 山城さんも附け加へた。 

 はら\/と   東の旅と聞く悲しさ

この悲しい物語りをしてゐる朝顔の衣装は 黒縮緬に薄紫に秋草を染めたものを肩と袖とに切りつぎにされたものを着てゐる。これが うらぶれた哀れな女をあらはすのに誠にふさはしくそして色気も充分に出る。人形芝居でも歌舞伎でもお約束の形ではあるが 上手な工夫だと思ふ。(大西)
 又も都を   声を忍びて嘆きける

(尼崎)「絵本太功記」は太閤秀吉の一代記を扱った浄るりと言ふより どこまでも運命に翻弄される悲劇の主人公 光秀を中心に描かれたもので今から百五十年ほど前の寛政十一年に道頓堀の若太夫の芝居で初めて上演された。この十段目には、物がたい老母も やさしい母も可憐な娘もけなげな若武者も不敵の英雄も出るので 浄るりの稽古にはもってこいの作品である。久吉だと思って槍を突込むと意外にも母であった光秀のおどろき、母親の有名なくどき 「主を殺した天罰の 報は親にもこの通り」のくだり 
「妻は涙にむせ返り」の操のさわり の所など 楽しい所が出て来る。
文楽ではこの操のさわりには文五郎さんや紋十郎さんに見られるやうに美しい型があって一層観客を湧かせるが
「女童の知る事ならず、しさり居らう」で妻を一喝した光秀が右足をおとして 右手扇を開いて胸に左手を上手に突出してきまる と 
「取りつくしまもなかりけり」で操は右手を前方に出して海老ぞりになる人形の型も印象的である。(吉永)