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名人のおもかげ資料 竹本角太夫

    

使われた音源 (管理人加筆分)
ポリドール 生写朝顔話 宿屋の段 竹本角太夫 鶴沢勇造 音源
ポリドール 伽羅先代萩 御殿の段 竹本角太夫 鶴沢勇造 音源

     

放送記録
203回 昭和26年6月5日 解説:大西 竹本角太夫の「宿屋」「先代萩」

     

(竹本角太夫)
 竹本角太夫は明治四年 大阪天王寺に生れ、素人の太夫から二十一歳の時、竹本摂津大掾の弟子となった人で、多くは彦六系の芝居で活躍して居た。昭和十六年六月 四っ橋文楽座に迎へられて、その文楽座が戦災に逢ふ直前の昭和二十年の二月興行まで出演してゐたが、同年十二月、七十四歳で歿。なほ昭和十六年十月に五世竹本重太夫を襲名して居る。

 竹本角太夫は明治二十四年に摂津大掾に入門して居たが、それはこの人の二十一歳の時で、それまでは素人として浄瑠璃を語って居た。攝津大掾の薫陶をうけて、地合には巧者なところがあり、特に景事物については楽屋でも定評があったが、詞となると、大切な基礎となる修行を欠いているやうに思はれるのが残念である。長い浄瑠璃道の生活のうちを多くは彦六系の芝居で働き、後には京都に出来た竹豊座にも出演したことがある。大正十四年一月御霊の文楽座へ出勤するやうになり、その時は「菅原」の通しに津太夫の「堀川」の後へ「御所桜」の弁慶上使の段を語ってお目見得披露として居る。三味線は猿糸時代の只今の豊沢広助。当時の劇評には、「他の太夫と色調が異ってゐて聞いてゐて感興は薄いが楽に聞ける」と記されて居る。他の太夫と色調が違うてゐるといふのは、特に、彦六系の芸といふのではなく、旦那芸としての自分の浄瑠璃を楽しむといった形の人ではなかったかと思ふ。後には四ツ橋文楽座へ出るやうになったが最期まで自分なりの浄瑠璃で押通して居た。
 昭和五年の終りごろ「御霊文楽座」問題といふ事件が起り、若手の太夫や三味線の修行がなほざりになってゐるので、このまゝでは文楽は壊滅していまふ。松竹という営利会社の手を離れて、もう一つ若手の修行道場としての浄瑠璃の劇場をもたねばならないといふのがその主旨で 因会の委員長だった竹本叶太夫などが主唱して、実行運動にとりかゝらうとした。しかしそれでは四ツ橋に立ったばかりの文楽座の存続を危くするものであるからと反対論も出たが、角太夫は大島太夫らの一派と共に叶太夫の運動に強い支持を与えた。この問題はつひに立消へに終ったが、角太夫は在野党の如く反抗的な気骨のある太夫ではなかったかと思はれる。
 ところが、昭和十六年といふ年は文楽にとっては大きな厄年で駒太夫につづいて土佐太夫が死ぬ。紋下の津太夫が死ぬ−で由縁ある古典の殿堂に大きな暗いかげがさしたが、この時、角太夫は叶太夫と共に実に十四年ぶりで迎へられて文楽座へ出演するやうになった。
 ところが巡り合せといふものは不思議なもので、つづけて大東亜戦争が起って 若い太夫や三味線弾きや人形遣の連中が、あるひは召集に、あるひは徴用に引張り出され 一人減り、二人減りして行った時とて、さうでなくても人材の乏しくなりつゝあった時代のことであるから、古い経歴の持ち主である角太夫の存在は重宝され、昭和二十年二月、文楽座が戦争の劫火に焼落ちる最後の興行まで、彼は老躯をひっさげて頑張り通すといふことになった。
 昭和十六年十月は師匠摂津大掾の廿五回忌に相当するのでその追善興行が催されたが、角太夫はこの時、五世竹本重太夫を襲いだ。その披露の語り物は「日吉丸」三段目 小牧山の段である。

         
(重太夫)
こゝで重太夫の名跡のことを述べる。重太夫で最も有名だったのは染太夫の門人であった三世重太夫で、後に五世政太夫となった人である。浄瑠璃を名人の太夫が語る場合、その太夫の修行次第で本人さへも動かすことの出来ない特有の語り方風格といふものを決定して了ふ。これをこの道では、「風」と呼んで居るが 後進の太夫はこれを尊重して語り生かすことに修練を重ねるのであるが、このやうな浄瑠璃の「風」は三世重太夫の「朝顔話」で打止めになったといはれて居り、浄瑠璃の「風」を作った最後の人である。そして大へんな美声家だったやうでもある。また四世重太夫は彦六座の初代櫓下に座った人で この重太夫といふ名跡はなか\/重いものである。
 角太夫の重太夫も美声家といはれる方で 景事ものにすぐれて居たことは前にも述べたが、四ツ橋へ出勤してからも「千本桜」や「忠臣蔵」や「妹背山」の道行のシンを勤めて、得意とする喉を聞かせて居るし、 時代ものでは前にも挙げた「小牧山」の外にも「御殿」「長局」「重の井」や「十種香」を語って居る。世話ものとしては「順禮歌」や「白石揚屋」や「湊町」などを語った。この時代の三味線は豊沢広助が勤めて居る。「朝顔」と「先代御殿」のレコードは五世鶴沢勇造といふことになって居るが、この勇造は五世鶴沢文蔵の門人で、幼名を花勇といったが、大正三年に五世勇造を相続した。
(大西)