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名人のおもかげ資料 七世豊竹駒太夫

         

使われた音源 (管理人加筆分) 
ニットー   艶容女舞衣 酒屋の段       七世豊竹駒太夫 六世鶴澤才治  義太夫SPレコード集成 ニットー編II NBTC-6 国立文楽劇場  平5
ニットー   天網島時雨炬燵 紙冶内の段    七世豊竹駒太夫 六世鶴澤才治  義太夫SPレコード集成 ニットー編II NBTC-7 国立文楽劇場  平5
ビクター   三十三間堂棟由来 平太郎住家の段 七世豊竹駒太夫 六世鶴澤才治  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター   新版歌祭文 野崎村の段      七世豊竹駒太夫 六世鶴澤才治   全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ニッポノホン 伽羅先代萩 御殿の段       七世豊竹駒太夫 野澤一弥    音源
ニッポノホン 恋女房染分手綱 重の井子別れ   七世豊竹駒太夫 野澤一弥

        

放送記録
39回 昭和25年6月9日 解説:大西 七世豊竹駒太夫の「酒屋」(1)
45回 昭和25年6月22日 解説:大西 七世豊竹駒太夫の「酒屋」(2)
97回 昭和25年11月9日 解説:高安 七世豊竹駒太夫の「紙冶」(1)
101回 昭和25年11月14日 解説:高安 七世豊竹駒太夫の「紙冶」(2)
214回 昭和26年7月5日 解説:吉永 七世豊竹駒太夫の「三十三間堂」と「野崎村」
339回 昭和27年3月4日 解説:大西 七世豊竹駒太夫の「炬燵」(1)
345回 昭和27年3月13日 解説:大西 七世豊竹駒太夫の「炬燵」(2)
410回 昭和27年7月24日 解説:安原 七世豊竹駒太夫の「先代萩」と「重の井子別れ」

         

駒太夫
 七世豊竹駒太夫は本名辻田萬蔵。明治十五年二月二十日、大阪笠屋町に生れてゐます。父は素人義太夫で、駒太夫が熱心にそれを聞き、よく覚えたので、義太夫語りとして立たすこととなり、三世富太夫(後の六世駒太夫)の門に入り、小富太夫と名乗りました。文楽座へ出演したのは、明治三十一年のことで後四世富太夫を継ぎ、更に、大正三年五月「鈴ヶ森」を語って 師名駒太夫の七世を継いだ。昭和十六年三月「酒屋」を語ったのが最後で、同年三月三十一日、六十才で歿。

      

駒太夫の一生
 豊竹駒太夫は本名を辻田萬蔵と言ひ、明治十五年二月二十日大阪の島の内の笠屋町に生れた。所が不幸にも二才の時 脳骨髄膜炎にかゝつて生れもつかぬ盲目となってしまった。駒太夫には兄弟が三人あり、上の兄に面倒を見て貰ってゐた。兄さんの家は古手問屋で心斎橋周防町西入北側であったと聞いてゐる。盲目で藝がなくては将来困ると言ふので五才から六才にかけて富崎検校の弟子となって地唄を稽古した。六才の時始めて義太夫を六世駒太夫に習ひ、又三味線の松太郎にも仕込まれた。然し松太郎は決して駒太夫に三味線を触らせなかったと言はれてゐる。太夫の修業に隙が出来ると思はれた程 幼い時から人並みすぐれて利溌で器用で三味線なども直ぐに弾けたのであろう。師匠が東京へ行く時綱太夫にあづけられる筈であったが、綱太夫は竹本ですから 呂昇の師匠のはらはら屋の豊竹呂太夫のあづかり弟子となって 愈々本式に文楽に這入ることになった。それは明治三十一年一月駒太夫の十七才の時であったが、それ迄に既に一人前の太夫として十五才の時には 呂昇の清津橋の席で小富太夫の名ででてゐたし 又東京の寄席へも師匠と供に出てゐた。
駒太夫の小富太夫が文楽に入座した時、たま\/トセ太夫(後の谷太夫)が病気で休んだので その代役に選ばれて非常に出来がよかったので その一芝居で大序を抜けると言ふ 素晴しい活躍であった。その頃の文楽は五十日も六十日も長期興行を打つ事が多かったが、駒太夫は朝早くから、夕方芝居がはねる迄 一日も欠かさず じっと簾の中で先輩達の語り口に耳を澄ましてゐた。普通の人と違って盲目であるから いらないものが見えないと言ふ強みがあるので、雑念を去って耳を傾けて力んで居た様子は充分推察出来る。尤も聞くと言っても一段の始めから終りまでずる\/べったり聞く訳でなく 先づ一段の始めの三分の一に神経を集中し、そのあとはさらりと聞く。その始めの三分の一が固って自分のものになった時、又次の三分の一を聞いて覚えると言ふ風であったと傳へられてゐる。盲目であったから文楽座へは染太夫の弟子の谷栄太夫や従妹のミナさんに手をひかれて通った。ミナさんと言ふのは駒太夫の母方の伯父の娘で 明治三十年の暮に貝塚から大阪に出て来て駒太夫の身の廻りの世話をして居た婦人で 年は一つ下であった。四時に起きて三つ寺筋から御霊迄の道すがら、出会ふものとては牛乳屋、新聞屋、それに髪結の弟子位で 船場の石原時計店の前で六時の音を聞くと言ふ風であった。このミナさんに手を引かれて文楽通ひの状態が十年続いて、ここに実が結び、一つ違ひのいとこ同志が、めでたく夫婦になったのは明治四十年の事である。駒太夫の杖とも柱ともなって助けられたこの未亡人は今京都で静かにその余生を送って居られる。
さて盲目であるだけに めあきと肩を並べようとすると 並一通りの苦労ではなく、又文楽では次第に盲目は舞台に立たせなくなってゐたので まづければ直ぐにお拂い箱になる。こゝに駒太夫の必死の勉強が続けられた。
大隅と別れた三代清六の三味線で下駄場を語ったことがあるがこれは絃阿弥について稽古したのだが、この時ばかりは余程苦労した様子であった。何でもよう語られることは語られるが腹が薄い為、時代物となると一寸もこたへて来ないので それこそ晝夜分たずの勉強で、食事もどこへやら、夜も碌々寝ずの頑張りは傍で見る目も気の毒な様子であったさうだ。勿論こんな時は誰とも面会謝絶で精進された。
 駒太夫の特徴はは人の投げたものや捨てたものを拾うて自分のものにする。合はないものでも苦心研究して立派に語り活かす所にあった。腹の薄い駒太夫は世話物に其の長所を発揮して 時代物を語る任ではなかった。そしてはでな中にも一種淋しい語り口が私共の心の底深く食い込んで来た。しかし時代物を語れなかったと云うことが世話物がたりの名人と云はれながらも先代津太夫や山城少掾の様に文楽座を背負うて立つ中心人物になれなかった原因でもある。
駒太夫の勉強の一端をお話しよう。例へば「天網島」の五左エ門がなか\/思ふように語れぬ。かうなると早速自分で工夫をはじめる。わからない所は弟子の富太夫を呼び寄せて本読みをさせる。盲目のせいか 非常に記憶力がよく、若い時は一度読むともうすっかり暗記してしまったと言はれてゐる。が五十を過ぎるともう そんな訳には行かなかったと見え、「矢張 年やな 頭 悪なった。覚えられん \/」と愚痴をこぼしてゐた。駒太夫は盲目にありがちの片意地な癖に 可愛らしい子供らしい所があり 芸にかけては全くのこり性であった。弟子でも覚えが悪いとぼろくそに叱った。弟子の富太夫さんは自分の頭のでこぼこを抑へ乍ら「これは師匠に叩かれた撥のきづです。へまを語ると腹を立てられる。覚えが悪いと腹を立てられる。しまひには阿呆と云って撥を投げつけられます。盲目ですから何処にあたるか物騒ですので体をかはすととても機嫌が悪い。叩かしてくれと頼まれたものです。恐れて逃げると少し時をおいて一寸おいでと呼んで傍へ行くと掴まへてゐて撥でこつんと叩く。叩かぬと気がすまぬほど一徹でした。」と語ってゐる。
「酒屋」の半兵エのぜん息の咳などは有名なもので あんなせきはもう再び聞かれなくなった。これは実は駒太夫の師匠の呂太夫が肺炎で文楽を休まれて後 暫くぜん息を患って居たが、駒太夫はこの師匠のせきを半兵エの上に應用したと言ふことである。又役がついても自信のない場合や知らぬ時は 前の津太夫や土佐太夫もさうであったが、名人の五世弥太夫の所へよく稽古に行った。世話物は必ずこの弥太夫の所へ通って勉強した。弥太夫はもう舞台を離れて勝手にやって居るのやから文楽の方の人に頼んで教へてお貰ひと云っても 駒太夫はなか\/おいそれと引きさがらなかった。都合が悪いとことわられても中江藤樹先生の門前で蚊に食はれ乍ら頑張って弟子になった熊沢蕃山式で頑張る。到頭我を折って稽古をはじめられると言ふ風であった。これと言ふのも駒太夫は盲である上に 師匠が東京に行ってから 呂太夫のあづかり弟子になり、呂太夫が死んで津太夫に、又津太夫が死んで越路太夫の弟子になると言ふ風に 師匠運には恵まれない人であっただけに 一旦選んだ師匠には一徹でぶつかって行ったものと思はれる。
駒太夫は盲目であったから 別に他の人の様にとり立てゝ娯楽といふものはなかったが、強ひて言へば酒と女であろう。と言っても大酒をのんだ訳ではないが、芸者さんに手を取られた駒太夫の姿は想像しても一寸面白いと思ふ。
 晩年は鶯と河鹿を聞いて楽しんで居た。視覚を奪はれた人が聴覚や臭覚が鋭くなるのは当然であろうかが、香水にも 口やかましかったと言ふことを聞けば意外に思ふ人が多い事であろう。鶯が大好きで、何時だったか大事に育てて居た鶯が死んでしまった。がっかりした駒太夫は早速御霊文楽座の前の小鳥屋で百五十円で鶯を買って来たが、何しろ当時の百五十円は今の何万円に当る。細君は生活問題とばかりに あまりの無鉄砲さにあきれて どうしてその金を拂ふつもりかと責めると「心配するな 放送局で放送したら一ぺんに返せるわい。鶯より俺のが上や」と平気なものであった。鶯の行水こそようさせなかったが菜葉を刻んだり、餌を計ったり、時には自分でその餌をなめたりしてしらべ 可愛がったものであるから 鶯も駒太夫の手へ止まる位に慣れた。鶯がなくとじつと嬉しさうに耳を傾けて聞いて居た。これが一番楽しい時でなかったかと思はれる。鶯より上だと豪語した駒太夫は「寺小屋」も「鮓屋」も語ったが、時代物はその任ではなく、結局世話物にその特色を発揮し「酒屋」や「封印切」や「新口」それに「野崎」などが私共の耳に残ってゐる。
昭和十六年三月二十八日肺炎で倒れ、汗くさいと云って 止めるのも聞かず風呂に這入ったのがもとで容態が悪くなった、三十一日に息を引きとった。四月二日 駒太夫の霊柩車が四ツ橋の文楽座に最後の別れを告げに廻った日 土佐太夫が死に、翌月には紋下津太夫が亡くなった。この年は三月四月五月と文楽にとっては悲しい日が続いた。
駒太夫は死に際、高熱に犯されて布団の中で暴れ乍らも じぶんの好きな、自分の吹き込んだ酒屋のレコードを家人がかけると苦しみもがき乍らも手で拍子をとって居た。ふとんをかき破ってあばれ乍らもこんな病気に負けるものか、わが家で死ぬのは嫌や、舞台でしぬんやとだゝをこねました。弟子の富太夫はこの師匠の最後の様子を語り乍ら、幾度か感激に声をくもらせそつと目をふいて居た。 (吉永)

       

(駒太夫)
 
駒太夫は生まれながらではないが、幼にして視力を失った人で、恐らくは生きる楽しみを、ただ一つこの浄るりに打込んだ人であらう。修行の基礎が正しくて 音遣ひが非常に巧みな太夫で風のある浄るりは楽屋内に於ても定評があった。また一段の中心になる切場の予備的な筋を賣る端場に、他の太夫には見られない特殊な味を聞かせてゐたが、「時雨の炬燵」の端場の「ちょんがれ」、「千本櫻川連館」の「八幡山崎」、「菅原」佐太村の茶筌酒、「日蓮記」勘作住家の子賣りなどは 今日に於ても浄るり通の話題になって居る。土佐太夫が引退した後は艶物語りとして重宝がられ、「酒屋」などは代表たるものであるが、その外には「封印切」や「吉田屋」「神埼揚屋」「十種香」「新口村」などが挙げられる。時代物の中でも「忠臣蔵」の喧嘩物で好色で貪慾な師直を遺憾なく語り生かしたが、大体に肚の薄い太夫であったから 時代物にはとりたてて問題にするやうなものは尠なかったやうである。(大西)

 駒太夫の声は奇麗であまり強くなく、まづ艶物語りとして認められてゐるから おさんや小春は無論適役であるが、五左エ門はどうかと危ぶまれたところ レコードにある通り敵役にならぬ程度で案外手強くしっかりやってゐる。
何時だったか、この人が文楽で「忠四」― 忠臣蔵の判官切腹の段を語ったが、あの声ではと内々案じてゐた處、実は堂々と立派にやってのけたので感心したことがある。後できくと何でも法善寺 先々代の津太夫に習ったさうで、やっぱり違ったもんだなと感心した。
それからこれも時日はわからないが、先代津太夫が「忠臣講釈」の七つ目、あのやかましい重太郎住家を語った時、一寸病気して二三日休んだのでその代りを駒太夫が勤めたが、どうかと心配したのも無駄で 本役の津太夫より上々だった程であったから安心したと三味線の道八が話したことがあるが、この人は名人の團平の厳しい教えをうけた人であるから 間違いのない評価であらう。
駒太夫がいつ盲目になったか聞きもらしたが 義太夫の道に入ったのは極く幼少の頃で相当の修業をつみ技倆も追々上達したが 初めは端場語りの名手として定評があった。清水町の師匠即ち名人の團平であるが、この師匠から芸の話を聞かして貰えるのは大抵晩酌の時で 普通一本 多い時で二本であったが、一寸変ったお肴を見つくらうて出すと非常に上機嫌でおいしいおいしいと喜ばれた。そんな時フトした話の具合で芸談が出た。といふやうなことを鴻池さんの「道八芸談」に書いてある。
駒太夫がまだ富太夫を名乗っておった頃であるが、やはりこの清水町師匠の芸段を聞かうと集った仲間であった。始めのうちは皆一同に師匠の一言一句を聞きおとすまいと一生懸命張りきって謹聴してゐたが、名人気質で芸事になると一切夢中であるから 興にまかせて話はそれからそれへと中々盡きなかったので 夜は次第に更けてくるし、しまひには朝になることもまゝあったから そこは凡夫の浅間しさで、名人になる資格の少い人の方が多い世の習ひとて そろ\/有難迷惑の気配が見え出した。スルトどこかでコケコーといふ声がするから、「お師匠ハンも夜が明けます」「アさうか」とそれでヤット一同が解放されますが その鶏の声の出處はいつもこの富太夫であったさうだ。茶気のある端場が巧かったのも この話から成程と肯かれるだらう。何しろ眼が悪いから床本を見ずに顔を少し仰向け加減にしてよく語るが、そのせいかどうもいくらか陰になるやうなこともある。(高安)

       

 七世豊竹駒太夫は、実によい浄るりを語った。勝れた芸を持ってゐた太夫だと思ふが、この人の境遇は、誠に不幸なことが多かったやうである。両方の眼が見えなくなったのは すでに三歳の時で 驚風という病気のためと書いたものもある。が、先達ての時に吉永さんは 脳骨膜炎だったといはれた。かうして視力を失ったから 聴力―物を聞くことのみによってのみ生きる楽しみをもってゐたのであろう。浄るりを語ることは勿論、その最大のものであろうが、小鳥が好きで 九官鳥や駒鳥を飼ってゐたといふことであるし、秋になって虫売りが表を通る毎に、さもなつかしさうに無邪気な微笑みを口の辺りに漾わせていたといふ話などは 誠にいじらしい次第であるが、その聴覚さへ 楽屋で火吹達磨の音が面白いと聞き入ってゐるうちに その達磨が破裂して 左の鼓膜を破ったといふことである。それは 彼の十八歳の時のことである。
彼の不幸は このやうに身体のことばかりでなく、最初に師匠とした六世駒太夫は弟子入りした翌年 東京へ去ったとうふ。その後に於て一番多く仕込まれたのが、豊沢松太郎ださうだが、それとても十一歳から十二三歳までといふ短い期間であった。その後ははら\/屋の呂太夫、法善寺の津太夫、攝津大掾の越路太夫等の預り弟子となって居たが、不自由な人間が、この世界で生きて行くは容易なことではなかったらうと思ふ。しかし十七歳で文楽座へ入りました時の彼の役が 「祇園祭礼信仰記」の大序の序口であったが、この興行で登勢太夫といふ人の代役で認められ 次の興行には序口へ進んで居る。駒太夫は文楽座入りまでに すでに寄席でも相当な人気を博してゐて、実力があったこととは思はれるが 大がい人間なれば大序を抜けるまでに 十年はかゝるといはれて居るのに 駒太夫がこのやうに序口は一興行 次の興行で序中へ進むには 余程の努力があったことと想像される。いつも興行の打揚げの日には必ず最後迄残って 人の語る浄るりを残らず聞いてゐたといはれてゐる。ニッタリと笑ふてゐる時は「うまいこと語りよる」と感心してゐる時 苦笑ひをしてゐる時は「ごまかしよるナ」と軽蔑してゐる時、こんな駒太夫の姿を見かけた人もある。
早くから巧者な浄るりを語って居たが それが認められて 一つの興行の売物として扱はれたのはずっと後のことで 昭和十一年ごろ 同じやうな世話物でもてはやされた錣太夫が衰へかけて来た頃からではなかったかと思ふ。この時代には「酒屋」「堀川」「合邦」「沼津」など、よい浄るりを聞かせて この人の浄るりに、どこか暗い翳がさしてゐたやうに思ふが、それは不幸だった駒太夫の環境から来ることもあらうが、浄るりそれ自体のもつ特徴ではないかと思ふのである。(大西)

       

 七世豊竹駒太夫は、明治十五年、大阪島の内笠屋町に生れました。三歳の時 病気のために両眼の視力を失ひましたので、音曲によって身を立てることになり、六歳の時、六世駒太夫の弟子となりました。はじめ小富太夫と名乗り、明治二十一年から文楽座に出演しました。後に四世富太夫を経て、大正三年五月、師名駒太夫の七世を襲ぎ、「鈴ヶ森」を語って披露ををしました。巧者な浄るりの語り手として珍重された太夫でありますが、昭和十六年三月、六十歳で歿くなりました。今日は久しぶりで竹本綱太夫さんにお越しを願って、大西重孝さんと この駒太夫のお話を聞きながら「炬燵」のレコードをお送りしたいと思ひます。それでは大西さんから

大西 今日は駒太夫の「炬燵」を聞きたいと思ひますので まづ最初に お玄人としてあなたが見られた イヤ聞かれた駒太夫の浄るりについてのお考へといったものからお聞かせ願ひたいのであります。
綱太夫 駒太夫さんの浄るりはまことに巧者な浄るりでありましたが、どちらかといへば非力の太夫でありましたが。
大西 腹の薄い太夫さんだったのですネ
綱太夫 さうです。それにも拘らず、強引な太夫ではいへないやうな腹わたをえぐるやうな浄るりを語って居られたと思ひます。やっぱり熱があったといふのでせうか、時には放れ技ともみえるのでした。丁度、相撲の大の里といったところでした。
大西 私どもは世話物語りの名手だとのみ思って居りますが、やっぱり時代物などにも立派なものがありましたか。
綱太夫 亡くなられた三代目清六さんが三味線を弾いて居られた頃の「下駄場」など。
大西 あなたの師匠の山城さんが、一時、清六さんと分れて居られた時のことですネ。大正六年の三月興行ですか「廿四孝」の通しで先代津太夫と友次郎の「勘助物語」の前で「景勝下駄の段」ー
綱太夫 さうです。駒太夫さんの「下駄場」など、一寸考へられないものですが、清六さんの三味線もよかったですが、駒太夫さんの浄るりがとても面白くて、私は何日も聞かせてもらいました。私が「下駄場」を稽古する気になったのもこれからです。「千本桜」の序切 「川越上使」で川越太郎の「ヘエしなしたり」といふところ グッと詰めて力が入ってゐました。
大西 夜討のところで 弁慶が討手の大将海野の太郎をてっぺいから爪先まで擲き砕いて候と聞くところですネ
綱太夫 それから後に「渡海屋」の幽霊を語られましたが、大きいところは 流石に非力なところが見えますが 凄みがよく出てゐました。そして この人にして写実的なところがあったのです。駒太夫さんは一般には地合語りといはれて居りますが 私は詞語りだと思ひますナ。
大西 写実的な技巧をものにしてゐた人なら 詞のうまいことは呑込めますが、あんなに巧緻な浄るりを聞かせてくれてゐたひとですから その節の美しさに ツイこれを聞きのがしてゐたのでせう。
綱太夫 「川連館」の「八幡山崎」や「大文字屋」などは、実に立派なものでした。道行物に一緒に出させてもらったことがありました。駒太夫さんのシンで ー 非常に巧いこと語られてゐるのですが、どうも私どもではついて行けないところがありましたやうに思ひます。駒はん一流の間がありまして これを悪くいへば あの方の自己陶酔だったのかもしれません。又芸に遊べるだけこの人に余裕があったともいひませうか なんといってもシンはその曲の指揮棒をふってゐるのですから ほかのものではついてゆけないのです。
大西 盲人一流のかたより方あったのかも知れませんネ。三歳の時にもう眼が見えなくなったといふことですが よくあれだけの浄るりが覚えられたものですネ。
綱太夫 余程 記憶力の確かな人だったやうです。新作ものゝ役があたった時など 弟子に三遍読ませてみて もう四度目にはもう自分で語って居られましたもの。
大西 岡崎綺堂さんの「修善寺物語」など語って居られましたネ。私もこの人の浄るりを聞いてゐて 間違ふことがないかと注意してゐたことがありましたが タッタ一度ありました。「近八」の「盛綱首実検」のところで 絶句して 扇子で床をトントンと二度程叩かれたら 後から誰かが教へたやうです。
綱太夫 打揚げの日には必ず最後まで残って、みなの浄るりをじっと聞いて居られました。盲人の方ですが、床本はいつでも書かして居られましたな。もしも自分が休んだ時、代り役の人が困るだらうと言って − それで誰でも役がついて本がないと駒はんのところへ借りに行ったものです。すると目明きは不自由なもんやナといって居られました。
大西 塙保己一といったところですね。
綱太夫 金時計をもって居られまして 時が鳴る仕掛けのあるもの、時間の文字がブツ\/がついてゐて 撫でてみると時間が判るのです。みなが面白がって「お師匠はん 今何時です」と訊く度毎に 駒はんは「待ち 三時十五分や」と嬉しそうに答へて居られました。

         

 駒太夫がなくなってからもう十一年あまりになる。此の十一年は随分長い間であったが、その当時の事が、まだ\/記憶にはっきり残ってゐる。此の七世駒太夫は盲人 − 盲であった。だから全部記憶で語ったので、本はいらないのです。文楽で床の分廻しが廻って舞台へ出ると 手探りで見台の位置を直し、口上で済んで 三味線がオクリを弾く間に右手で湯呑を探して一口呑んで 手探りでもすぐ取れる処におき、身体を前かがみにして顔を上に向けて語り出すのが癖で 此の順序はいつも決ってゐた。何しろ盲人だから 床本はあっても不必要だが一応形をつける為に持って出てゐた。眞中に扇を挿んであるので眞中を開けたまゝ、一つも本をめくる事はいらない。だから駒太夫の床本はどれを見ても少しも汚れてゐない綺麗なものであった。語り口は、これからレコードをお聞きになっても分るが 節の細い、大阪風の粋な声であった。だから、細い節を好む人には 非常に好かれて「駒はん」「駒はん」と大変評判になってゐた。その細い節遣ひは 土佐太夫とは一寸違ってゐて、どちらかと云へば攝津大掾の語り方に似てゐたのだらう。何しろ全部記憶で語るので 人の余りやらない端場物でも すぐに出来るので大変重宝がられて 津太夫や土佐太夫の代り役をよくやってゐた。又放送の方にも大変よく出てゐて 恐らく回数は駒太夫が一番多かったのではないかと思ふ。得意なものは「酒屋」とか「紙冶」とか、艶物が多く 又一方紙治の「ちょんがれ」や楠の「どんぶりこ」の様な チャリ物にも一寸人の真似の出来ない面白さがあった。然し、「壷坂」は大嫌ひであったと生前に云ってゐた。何しろ自分が盲で、境遇は同じであっても 澤市の方は眼が明くのに自分の方は目が明かないので、それで嫌であったのかも知れない (安原)

        

(先代萩)
 
駒太夫の得意のものであった「先代萩」と「恋女房」の十段目、重の井子別れ。三味線は野澤一彌、のちに錦糸となった人。今の錦糸の前の錦糸で、三代目に当る錦糸で、今から三十五年前の大正六年頃の録音だから音は悪い。

( どれ 拵へうとかい立って...     ...いつ水さしを炊桶)

大変美しい声だから、常磐津松尾太夫は「駒太夫さんは名人だ」と大変ほめてゐた。

( 流す涙の水こぼし...     ...ソリヤもう飯じやと悦ぶ子)

恐らく攝津の大掾はこんな風な語り方をしたのではないかと思ふ。駒太夫は此の先代萩を自分の得意の語り物としてゐたのは 大掾の語り方をよく取入れたからでもあらう。

( コレ千松、何ともないと云ふ下から...    ...紛らす声もふるわれて)

只今の「夕べ呼んだ花嫁御」の処は、好い処ですが、駒太夫のは特によかったので、何時も聞く人をワツと云わしてゐた。然し此のレコードは実物より少々劣る様で 実物は之以上の大変好いものであった。駒太夫の先代萩レコードはこれで了ひで此の後は入ってゐない。誠に惜しいと思ふ。 (安原)

       

(重の井子別れ)
 
恋女房の重の井子別れは三味線野沢一彌、後の三世野沢錦糸で今から三十五年前の大正六年頃の吹込みである。「鳥羽の祭りの餅が咽に つまったとやら」から入れてあるが、例の「夜は沓打ち 草鞋作り」の処は実に見事に語ってゐる。

( 鳥羽の祭りの餅が咽につまったとやら...      ...見れば見る程我子の興之助)

次は少し飛んで段切へ行く。此の間の部分はレコードに入れていないので 此の放送で省略したのではない。

( お乳はさあらぬ顔付して...       ...中にしぐるゝ 雨宿り) (安原)

     

(柳)
 
三十三間堂棟の由来のお柳のさはり。いよ\/熊野谷の柳が三十三間堂の棟にする為、斬り倒される事になったので、夫婦の契りもこれ迄と 柳の精のお柳は 夫、平太郎の寝て居る姿を眺めながら、名残惜しげに別れを告げる。お柳の詞を 駒太夫は人間の幽霊や狐の化身の葛の葉とは又違った非情の柳の精として ちゃんと語って居る筈である。愈々斬り倒された柳の大木が 新宮の浜崎へ多くの人夫に曳かれて運ばれて来る。有名な木やり音頭の所である。この音頭は決して絃についてはならず、すっかり離れて賑やかに遠い声で語らねばならぬと言はれて居るが、唯美声をはりあげて歌ふのでない。駒太夫の本格的な木やり音頭は聞きものである。かうして、今迄多勢の人夫が曳いても、しやくっても動かなかった柳の大木も 涙乍らに曳く我が子の手によって する\/と動き出す。悲しい対面の中に、親子は名をあげて めでたく都に帰ることになる。 (吉永)

       

(野崎村)
 
野崎村の道行、これは文章の上で読むと お染と久松を見送るお光の淋しい尼姿が私共の心にひし\/と 刻みつけられるのが誠にはでな三味線の手がついて居て、前場の終りの悲しい場面から救はれてほっとなって気分が一転する所である。こゝを語る駒太夫について私はこんな風に考へる。陰気な盲人が艶ものを語る。こゝに何とも言へぬ味が出るのだらうと思って この人の「封印切」や「新口」や「野崎」を味はって居る。(吉永)

       

(酒屋)
 
「艶姿女舞衣」は安永元年十二日、豊竹座で初演されたもので 作者は竹本三郎兵エ等である。この三郎兵エは、人形遣ひの名人といはれた吉田文三郎の子で、初め吉田文吾といって同じく人形遣ひであったが、後に竹本三郎兵エと改名して 近松半二を助けて浄るりの台本を書いてゐた。正本は上中下三巻に分れ 酒屋の段は下の巻、上塩町の段のことで 初演は豊竹島太夫である。「今頃は半七様」といふクドキと共に数ある浄るりの中でも特に皆様に馴染みが深く、美声の太夫の専売ものゝやうに思はれて居るが それは六世竹本綱太夫が美声で当ててからのことである。元来は陰気な浄るりで宗岸や半兵エなどの詞を掴んで語るものといはれて居る。初演の島太夫以来、打絶えてゐたのを 百三十数年たった文化五年に三世竹本綱太夫が復活して、この一段の風格を完成したものである。一体綱太夫の芸は初代も二世もさうであったが、浄るりは陰気に締めて語って三味線はこれとは反対に出来るだけ陽気に弾いて、この二つのものがからみ合って行くところに 人情の機微をつかうといふ主張で この点に非常な苦心が拂はれたもので これを綱太夫風の特徴として居る。この駒太夫の「酒屋」も人形を離れて聞いてゐると さうした点に心を致してゐるやうに思はれる。

( こそは入相の...       ...子故にくらむ黄昏時)

今のところは 上塩町の町家の軒並に夕闇がせまって 霞んだ遠音の鐘が淋しく響いて来ようといふ情景を充分に語る。この情景、雰囲気がこの一段の基調になってゐることを頭においていただきたい。ここでお園が父親の宗岸に連れられて来るが、「あたら盛りを独床の」以下は宗岸の地合で 幸福であるべき新婚時代から三勝といふ女に見返られて唯一夜の添臥さへしたことのない娘をしみじみといとほしむ心で「子故に暗む」の後の「ツン」の三味線で吾に返るといはれてゐる。次の「主の妻」になって、半兵エの女房が入口へ来て、この二人を見つけ、「これは\/宗岸殿」と親しげに呼びかけてから、フト宗岸の蔭に身をかくすやうにひき添った嫁のお園をすかし見て「そちらにゐやるは...お園ぢやないか」といふところは これらの人物の間にこの間からもち上ってゐる事件の葛藤を語り生かさねばならないといはれてゐるが、駒太夫は存外サラリと語って その後の「低き敷居も越え兼ねる」のお園を充分丁寧に語り生かしてゐるやうに感じられる。

( 主の妻は火をともし...        ...後は詞も涙なり)

宗岸も半兵エも同じ年配の老人であり、これを語り分けることは難しいが、宗岸の人形は「定の進」といって 裕福で慈愛に充ちた町家の老人 半兵エの方は「舅」といふどこか傲岸なところのある老人のかしらを用ひてゐるところに この二人の老人を語り分ける目安がある。駒太夫はこの二人を際立った技巧を用ひず巧みに表現してゐるが、この間に挟って半兵エの女房の、何の理屈もいらない人好い婆々を点綴してゐるところに御注意願ひたい。

(オゝ何のまあ そっちさへ其心なら...      ...樋の口開けし如くなり)

次は本文では「半兵エ涙の内よりもお園が顔を打守り」となってゐるが、これを「嘆きの内より持病の痰にせき入って」と改めて 咳を聞かすやうになったのは 前にも申した三世の綱太夫からの工夫で、この酒屋を語る太夫の聞かせどころになってゐる。駒太夫もその後の詞のあいだにも辛さうな呼吸を巧く聞かせてゐる。

( 嘆きの内より持病のたんにせき入りて...     ...伏し沈むこそ道理なり)
(大西)

       

 こんな話がある。「酒屋」を語る際に「三十三間堂棟由来」平太郎住家の段と書いた床本を用意して来たので「駒はん 今日は酒屋を語ってもらひますのやが 本は柳だっせ」と注意すると「床本は柳でも酒屋を語ったらよろしおまんのやろ」と答へたことがあると聞いたが、又これとは反対に、芝居ではいつも自分の語り物の本を用意してゐるので、ある太夫が「あんたならどんな本でもよろしいやおまへんか」と云うと「万一、自分が休んで代り役の人が困りやはるといかんよってに――」と答へたと云ふことも聞いてゐる。旅興行などで時間の関係から短縮してほしいと注文が出ると、予めどこを抜くといふ用意もなく、語って行く内に適当に省略して、チャント注文通りの時間に切り上げてゐたと云ふ器用なところもあった。今日は「半兵衛漸う顔をあげ」からであるが、「跡には園が憂き思ひ」からはお馴染のクドキになる。駒太夫は綱太夫の陰気な音遣ひを聞かせてくれたが、通人の間では春の海のやうに、もっとのたり\/と云った気分のノリ間を聞きたいといふ批判もあった。しかし今日からみれば誠に得難い艶物がたりだったと思ふ。文楽の舞台では文五郎の遣ふお園の人形が、この旋律にのって美しい振りをふんだんに見せる。お園の人形は紫系統の小紋縮緬の着付に、黒襦子の帯にとき色のしごきをしめて、髪は鴛鴦髷に結って 簪に、ときと水浅黄の花掛をつけてゐる。

( 半兵衛漸う顔を上げ...        ...未練な私が輪廻故)

人形は「これ迄居たのがお身の仇」といふところで人形振りでは一番美しい後振りを見せる。「これ迄居たのが」のあとの「アゝゝゝ」といふ節にのって前に出、右手を左遣ひに預けておいてゆったりとクリズといふしなを見せてから「お身の仇」で片手遣ひで、丁度鳥の羽を拡げたやうな後向きの美しいポーズをつくる。人形の美しさはこゝばかりではない。「今の思ひに」で框から土間へ降りて「くらぶれば」の「くらぶれ」のポテトンの絃で框に腰を落として、後の「エゝゝゝゝゝ」で糸にのって頭をふる。こゝから一層新しい旋律がつづいて「死ぬる心がエゝつかなんだ」で下手の後振りとなって、やり場のない悲しさに悶える振りを見せる。總て三味線にのった振りに文楽ファンが陶酔するところである。

( 添臥は適はずとも...       ...オゝ能う聞いてゐますわいの)

ここで近所の稽古屋で唄う「妹背川」の地唄が聞えて来る。文句は
 口舌の宵の夢なれや 二つ枕の妹背川 袖から袖へ手を入れて、ぢっと締めたる下紐の 憎や男の当て言を 聞いてゐるさの障子より 洩れいづる 月は冴ゆれど胸のやみ 鬢の後れ毛 はら\/\/と、共に乱るる親心、鴛鴦の片羽のとぼとぼと、子に迷い行く小夜千鳥...」云々。
と云うのであるが、この「聞いて入るさの−」といふ所と「鴛鴦の片羽」といふ所を使ってゐる。これに琴を入れる時もあり高音といって上調子をかけることもある。いづれにしても太夫は これを聞かしてやらうと云ふのではなく、どこ迄もよその稽古が聞えてゐるといふ様に語らねばならない。

(  聞いてゐるさの障子より...       ...泣く音止むる憂き思ひ)

この手紙は退屈なところであるので、次に来る「未来は必ず夫婦にて候」の件りで「未来は夫婦と書いてあるかい」 「未来で夫婦と書いてあります」 「それはいっちょい事が書いてあるな」といふ入れことをしたり、又、その後の「どれ\/娘まちつとぢや、どれ\/おれが読みませう」のところでお園が私が読むと聞かないので親子が取合ひになって「コレコレそれは片意地な、そのやうに引張るととっともう破れるがな」など云ってゐる。この正月、山城少掾がこの「酒屋」を語った際、すっかりかうした入れことを刈りとってゐた。(大西)

(炬燵)
 
炬燵のサワリは誰にも好かれ よく語られるが、駒太夫は声も美しく艶もあるが、おさんにどこかしっかりとした堅いところがあって、色気の多い茶屋者の若い小春と違うのが面白いと思ふ。
治兵衛は小春が足掛三年も自分を欺してゐたと誤解し、急に恋敵の太兵衛に請出されると聞いてムシャクシャ腹で涙を流すのを まだ小春に未練があると誤解するおさんも流石に女子でとうとう本格的な悋気の爆発となるが、こゝには種々と語る気持に口傳があるさうだ。
商人として一番大事な しかも無理算段までして拵えた銀何貫目とともに 自分や子供の身のまはりを一切投出して小春の命を助けようとするのは 単に「義理」などの問題でなく 恨に対して愛を以てするおさんの心情は尊むべくまた憐れなものであるが、さうした苦心の甲斐もなくすべてが悲劇に終るところに人世の深刻さがうかがはれる。五左エ門が引込むと少し前から門まで来ておった小春が内へはいって二人の子供をあやなすが、面白い三味線の手とともに良い情緒が出てゐる。

( 声に目さます勘太郎...      ...媒人役のエヘ俺様ぢや)

ここで出る阿呆の三五郎であるが、この阿呆が中々むつかしく名人らもいろ\/と苦心したと聞いてゐる。それからお末が出て後に善六太兵エの殺しになって心中に出かける。鴈治郎や越路などがやると、息もつげぬ程緊迫したところである。

( 礼には好の虎や饅頭...       ...思へばいとど胸せまる)
(高安)

    

 ( すぐり佛なり 門送りさへ...         ...顔うち守り\/)

「門送りさへそこ\/に」のあたり、すでに駒太夫の特徴である暗さが現はれて居る。これから、おさんのくどき − さわりになるが、初演の染太夫の語るおさんの情愛の深さは聞いてゐる年増女が 顔さへよう上げなかったといふところである。

( エゝあんまりぢやぞえ 治兵エさん...     ...アノ不心中者がなんで死なうぞ)

攝津大掾の引退後 大師範役として文楽に君臨してゐた六世豊沢廣助(後の絃阿弥)のお気に入りの太夫は、今日の山城少掾さんと、もう一人は外でもないこの七世駒太夫だったといふことである。その駒太夫の巧緻な浄るりはかうした世話ものによく現はれて居る。次の「内輪に見ても廿両」のあたり実に見事なものである。

( いえ\/ さうぢやござんせぬ...      ...内に情ぞ籠りける)

地の文章に「夫の恥と我が義理を一つに包む」とあるが、これがこの場のおさんの心根であり「私や子供はなに着いでもとかく男は世間が大事」と誠に健気なことを申して居る。しかし 夫が小春を「請出して圍うて置くか、又内へ入れるにしてからが そなたは何と」と随分得手勝手なことを言ふのに対して この改作の「時雨の炬燵」では「ハテ子供の乳母か飯焚きか」と苦もなく答へさせて居るが 近松の原作では「はっと行当り」といふ説明があって「アーアさうぢや」と諦めの詞が入ってゐる。こゝに女の哀れの姿がハッキリ浮んで来るやうに思はれる。近松らしい心の行き届いた文章である。しかしこのレコードは半二の改作の方ですから 勿論さうした文章はない。(大西)

     

 ( アゝ過分なぞや忝い...      ...金押入れて立ち入るづる)

前回には
 金押し入れて立ち出づる
まで送りましたが、今日は舅五右エ門が おさんを連れて帰る。
 藪に夫婦の二股竹
の少し前からです。

( 声に眼覚す勘太郎...      媒介役のエヘ...おれ様ぢや)

この丁稚の三五郎が薄ぼんやり語られると、ここの哀れがよく出ると言われてゐる。

( 礼には好きの虎屋饅頭...     私にも一寸読まして下さんせ\/いな)

茲で文楽の人形ではあたまを丸めたお末の白無垢の着物に、おさんと五右エ門との文句が書いてあるのを、治兵エと小春が読むが、二人があちら向けこちら向けと引張り合ひをする度毎にお米がキョト\/するのを見物が笑って見てゐるが、随分乱暴なことをするものだと、私はいつも思ふ。

( エゝ兎角連合ひの命が助けたさ...     ...取り乱したる詫び涙理りせめて哀れなり)
(大西)

       

(小春治兵衛)
 
「時雨の炬燵」の原作は 近松門左エ門の「心中天の網島」で、それを六十年程経ってから近松半二が改作 − 改悪といふ方が当ってゐるが、それをまた増補したものである。この小春治兵衛の心中は享保五年十月十五日(一七二〇)のことであるが、大阪網島の大長寺の樋の處でやった。現今の大長寺はそれより数町東北の東野田に移ってゐるが、明治の中頃までは淀川の曲って居る處の南岸にあった。天神橋筋一丁目鳴尾町から少し北へよったあたりにあった紙屋の治兵衛は二十八、小春は十九で曽根崎新地きいの国屋抱えの白人 つまり女郎で二年前の享保三年頃からなじみを重ねてゐた。
治兵衛の女房おさんは治兵衛の伯母の子、つまり従兄妹のことでお米に勘太郎といふ四つと六つの子もある仲であるが、勝気なシッカリもので、夫へは献身的な愛情を捧げてはゐるものゝ商売を忘れず、内を外の夫に代っていろ\/とやり繰り算段をして立派に表を張ってゐた。それに比べて小春の方は南の風呂から住替えて来た。「心中よし意気かたよし」の遊女であるから、遊蕩ものの治兵衛がのぼせるのも当然で、それがこうじて追々身代にヒビが入る中、運の盡きには借家に関する訴訟を取上げぬといふ法令が享保四年に出た為 経済界に大恐慌が起って、治兵衛のやうな庶民は第一番にその犠牲となったのでとう\/惚込んだ小春と心中するやうになったが、今でいへば一寸した夕刊記事に過ぎないのを、心中ばやりの当時であり近松の筆の力で今日まで知られるやうになったのは仕合せといふてよいか不仕合せといふのか一寸わかり兼ねる。
近松の原作によると舅は別に悪人ではないが、昔気質で唯もう我娘可愛い\/が一心の自己本位な頑固お爺、今日でもよくある型の老人であるが、半二の改作では表面は惨いやうでも内心はわかってゐて、ガランドになったたんすの引出しへ百両を入れておいたりする小細工がある。これは役を良うしようといふのと、見物をアッと いはさうとする作者の常套手段で 異った趣向を喜ぶ後の時代の作品に多い不自然なものである。心中から五十四年後の安永三年の春、大長寺に開帳があって、小春治兵衛の書置を見せ、またそれへ当時の住職が追善の狂歌を書き添へて板にしたりしたが、それによると享保七年十月十四日の十夜に両人がお詣りしてその暁方に、この書置を懐中したまゝ死んでゐたといふ。ところが第一に年が違い、原作には十夜に参ったことも書置のことも出てゐないから甚だ怪しい眉唾ものと思ふ。
しかしこの時に二人の碑が出来たりして大変な人気を呼ぶ、開帳は大当りだったから、それを当て込んで同年四月廿一日から道頓堀で「義経腰越状」のキリに「のべの書残」の外題で舞台にかけたところ、これも亦好景気で、浅尾為十郎のでんかい坊初役で大当りと記憶に出てゐる。
でんかい坊といふのは原作にはないが、「時雨の炬燵」の端場ではではちょんがれを唄い、駒太夫など得意の語りものであった。多分原作でなんまいだ坊主の戲謔念佛が前段の河庄へ出るのをこの幕へ流用したのかも知れぬ。それから三年後の安政七年四月に、半二の「心中紙屋治兵衛」が出来たが、それでも現在行はれてゐる炬燵とは違って、治兵衛が善六太兵衛を殺す條はない。
それで敵役のやうに見えた舅五左エ門が通をきかして百両置いて行ったり、おさんが尼になるについて娘のお米も可愛らしい小坊主姿で帰って来ると、墨の衣の下の白無垢におさんの筆のちらし書きがあるなど、ここらはどうも「のべの書残」と因縁浅からずの感が深い。この手紙を治兵衛小春の両人が読みあふのは、七年前に出来た「艶姿女舞衣」、即ち、三勝半七の酒屋の趣向を一寸失敬したのかも知れぬ。
それからよく世間では、前の河庄へ出る治兵衛と後の炬燵のとは人柄が違うなどいふが、成程前は所謂純二枚目の遊治郎で、一寸したことで欺され、偽の証文で金を取られる大だわけである。後の方では舅の金山の失敗を身に引受けて損したのを隠すための茶屋遊び − とは少々苦しい弁解であるが、それが蒿じての結果と遊女狂ひを合理化して、キリには偶然ながら人殺しをする程の強さもあり、芝居でよく見る初代鴈治郎などの「魂ぬけてトボ\/と」の名舞台などとはおよそへ距りのある性根となる。近松の原作ではそんなヒネクリまはした書方でなく、薄志弱行の凡人で、終始一貫してゐるが、理詰め好きの末世に出た半二の改作即悪作であるわけもそこにある。しかし長年語りつづけられ、節も筋も皆聞きなれており、中々良い節もついてゐる。殊に原作にある名句も部分的にとり入れられてあるので、名人の名演技になると中々面白い。 (高安)