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浄瑠璃名盤集資料 鶴沢道八

            

使われた音源 (管理人加筆分)
ビクター 源平布引滝 松波琵琶の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八        参考音源  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 寿式三番叟        二世豊竹古靱太夫ほか 鶴澤道八ほか    部分音源  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 壷坂観音霊験記 沢市内 山の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八     部分音源  全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ポリドール 摂州合邦辻 合邦住家の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八
ポリドール ひらがな盛衰記 逆櫓の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八       部分音源
ポリドール 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八
ビクター 増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八             全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 仮名手本忠臣蔵 殿中刃傷の段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八            全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)
ビクター 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 四世竹本大隅太夫 鶴澤道八           全曲(国立国会図書館 歴史的音源 図書館限定)

        

放送記録 
88回 昭和25年10月12日 解説:大西 鶴沢道八の「布引滝」(1)
96回 昭和25年11月7日 解説:大西 鶴沢道八の「布引滝」(2)
135回 昭和26年1月4日 解説:大西 道八の「三番叟」(1)
136回 昭和26年1月5日 解説:大西 道八の「三番叟」(2)
233回 昭和26年8月21日 解説:吉永 鶴沢道八の「壷坂」
290回 昭和26年12月13日 解説:安原 鶴沢道八の「合邦」と「逆櫓」
295回 昭和26年12月20日 解説:安原 鶴沢道八の「御所桜」
341回 昭和27年3月6日 解説:高安 鶴沢道八の「壷坂」と「布引瀧」
368回 昭和27年4月24日 解説:吉永 鶴沢道八の「逆櫓」と「本蔵下屋敷」
403回 昭和27年7月14日 解説:安原 四世大隅太夫と鶴沢道八の「忠三」と「堀川」

     

 鶴澤道八は本名浅野楠之助、明治二年大阪島の内坂町の生れ、同十年九才の春、二世鶴沢吉左エ門の弟子になって鶴沢吉松と名乗ったが、十六年に師匠が死んだので、四世竹本住太夫の相三味線をつとめてゐた二世鶴沢勝七の預り弟子になる。
 明治十五年六月始めて鶴沢友松の名で松島文楽へ出演し、後師匠勝七と共に彦六座へ移り、かねて私淑して居た名人団平の三味線を朝夕聞く機会を持った。明治三十五年八月以来、神戸に隠退、四十年に道八と改名。大正十三年十一月廿数年振りで、時の紋下三世竹本津太夫の相三味線として御霊文楽へ迎へられた。御霊文楽消失後、昭和二年三月から静太夫改め四世大隅太夫を弾いたが、晩年は大隅とも別れ、若い松太夫等を弾いたりもした。昭和十九年十一月二十八日、七十六才で歿。

(道八) 道八の一生は名人団平を追慕の一生であったと思ふ。団平はいつも弟子達に向って「舞台で死ね」と命じて居たし、自分も「志渡寺」を大隅の為に弾きながら舞台で死んで自分の教訓を身を以て実践した。そのやうな団平の芸を必死で追及して行った人がこの道八である。悪口を云ふ人は「道八は何かと云うと団平を引出して自分の芸に勿体をつける」と陰口をきいたが、私どもはあの「三番叟」三味線を聞き、「布引」の三味線を聞き、又「勧進帳」の三味線を聞いてゐると道八の強さ、大きさ、魂をゆすぶる恐ろしい迫力、さう云ったものを感じずにはいられない。
 ピアニストの原智恵子が特に道八の三味線が好きで、道八の生前には度々聞きに通はれたのだと谷崎さんの書かれたものにもあるが、道八の三味線のどのような点が好きであつたのか、その音色が好きなのか、それとも力強さが好きなのか、兎に角十年もパリで過ごした近代人が、あの太棹の音色にひきつけられると言うのは、何かあの音色の中には日本人の血をゆすぶる宿命的な魅力が篭ってゐるのではないだろうか。それと共に道八が如何にすぐれた技の持主であるかがうかがはれると思ふ。
 又谷崎さん自身も道八と大隅太夫の「逆櫓」を聞いてゐるとあの旋律の中には、波立つ海面、渦巻く水勢、一つ所を往ったり来たりする船、一生懸命に櫓をこぐ水夫の努力、さう言ったものが眼の前に彷彿として来て道八の豪快な撥さばきに魅せられてしまふと書いて居る。それから何と言ってもこの名人道八を一番よく知っていたのは鴻池幸武で、この人は南方で病死されたが幸い私は、彼の著した「道八芸談」を貰って形見として持って居るので、道八を偲ぶ色々な語り草が皆様にもお伝へ出来る事をうれしく思ふ。
 尚私は先年道八の描いたねむり猫と胡蝶の軸物を手に入れたので朝夕眺められる自分の部屋にかけて楽しんで居るが絵もなかなかうまい。
 扨て道八が清水町の団平師匠の三味線を初めて聞いたのは明治十五年六月に松島の文楽座へ始めて行った時で、此の時団平は後の攝津大掾である当時の越路の一の谷の陣屋を弾いてゐた。それから次々と中将姫、宿屋、紙治などを聞いたが、道八は団平の芸が他の人より圖抜けて烈しいのにすっかり感激した。
 そこで何でもこの日本一の師匠に取入って特別の指導を受けたいものと一筋に思ひつめたが、その頃道八は文楽では大序を弾いてゐるかけ出しでそんな名人に稽古をして貰う手段もなく、家へ伺ってもお歴々が朝からつめかけて居てなか\/師匠と口を利く事へも出来ない始末であった。
 その中明治十七年二月彦六で「橋供養」の「衣川庵室」の琴を弾くのをきつかけに道八は彦六へ移る事になり、団平も越路と別れて九月から彦六の三味線紋下となり、改築祝の三番叟では道八は連弾の豆食に出して貰った。名人との連弾きは天にも昇る心地であつたらう。
 この彦六座は文楽座に対抗して出来たものであるからそれだけ団平を中心として一座のものが皆一団となつて芸道にはげむ気風が濃厚でしたので文楽座時代とはちがって団平に近づく機会は多くあったが、まだまだ団平との隔りは大きくて総稽古に直して貰う位が関の山で、宅での稽古はやっぱり駄目で先輩達に「お先へ」と順番をとられていまふ。
 この彦六座へ這入ってからは兎に角道八にも役がつき、薄給乍ら給金も貰ふようになったが、此の時道八自身の境遇にも大きな変化が起つた。それは道八の母親はいつも道八に向って「芸人の修業と言ふものはなあ、自分で苦労して自分の力で立って行かなあかんもんだっせ。必ず親がゐると思たらあきまへんで」と諭して居たが、こんどこそは本当に家をたゝみ、道八をおいて、さつさと神戸へ引きあげて行った。
 あとに残された道八は一人途方にくれて時には神戸に去った母親をうらめしく思ひ、又彦六がはねた夜の心斎橋の欄干に肱をついて長いこと考えこんだ事も一度や二度ではなかったといふ。その様にして道八は一人身となり母親の言ったやうに何から何まで一人でやって行かなければならない身の上となった。住む家からして先づ求めなければならないし、それに食べる事、着る事、芸道精進の上に道八にとっては大きな負担がのしかかって来た。しかし この事が彼にとって大きな幸となってゐる。それは道八が数年間知人の家を転々と 居候生活をした挙句の事であるが、丁度その頃団平の家の露地内の長屋が一軒あいたと団平家の古い女中おくみさんが知らせてくれた。団平に近づくには何よりの機会と思って早速飛んで行った。ところが空家と言ふのは人の居つかぬ幽霊屋敷で男に逃げられた女髪結が悲観のあまり首つりして死んだ家で残した子を思ふ執念が時々現れるのだと云ふ。しかし道八は 兎に角道八の彦六座で貰ふ給金が二円であったから、家賃を拂へば一文なしである。家は借りたものゝ畳も建具もなかったし、その上、道具とては更にない家であったから、その生活ぶりは想像以上かと思ふ。夜は押入の中に筵を敷いてひいきの芸者に貰った子犬と眠り、着物は衿一枚の着たきり雀、芝居小屋でもどこででもどこでも道八は垢臭いと言って人は彼のそばをよけて通ったりした。又肝心の商売道具の撥も撥先だけが象牙になててゐる稽古用の木撥に紙を貼りつけて丸象牙に見えるやうにし、三味線の張替は前借ばかりで懐中は無一文であった。三度の食事はおかゆで時々団平さんの女中おくみさんの機嫌をとっては御飯のおあまりを頂く位であった。
 或朝早くこの幽霊屋敷にあわただしくおくみさんがやって来て「友はん、御師匠はん来やしたで」と声をかけるので「しもた。えらいとこ見られた」と飛び起きるともう師匠が這入って来て「こゝが友の家か。まだ寝てんのか」と言い乍らあちこち見廻して、「えらい暗いやないか、たゝみもひいてないのんか」と言って暫く黙りこんでからやがて出て行かれたといふ。
 それから間もなく団平が道八に対して「稽古してやる」と云ひ出し、こゝから激しい血のにじむやうな稽古がはじまった。時々台所からおくみさんが合図して「腹が減ってはお稽古にも身が入りまへん。今のうちよばれなはれ」と云ふてふるまってくれた。腹が出来ると又命がけで体当たりして行くので師匠の教へもとん\/拍子で納得出来、かうして道八の芸が次第に完成されて行った。
 又道八は芸にこり性の人であったし、又他の芸人と同じく神様にも凝って居た。神戸の家には神棚が教会のやうにものものしく飾られてあって誰でも眼を見張ったさうである。
 それに、もう一つ驚いた事は道八の愛玩の九官鳥が居て「今頃は半七さーん」と訪ねた人に語ってくれたさうである。 (吉永)

           

 道八が二世団平の三味線を始めて聴いたのは明治十五年の六月、松島の文楽座へ初出演の時の事で、この時、団平は二世竹本越路太夫 (後の攝津大掾)の相三味線として「一の谷」の熊谷陣屋を弾いてゐた。それから「中将姫」「宿屋」「紙治」と、次々と聴いてゆく内に、団平の芸が他に抜きん出て烈しくて、三味線の音の特に大きい事、足取りが他の人と全然違ってゐる事にすっかり参ってしまひ、その後は、「なんでもこの日本一の師匠に取り入って特別の教へを授かりたいもの...と、一途に思ひ込んだのである。
 師匠の勝七の弾いてゐた住太夫が道八の心中を察して、団平に近づける様に取持ってくれたので、道八は住太夫を徳として、自宅の神棚には 団平師匠と勝七師匠と共に住太夫をお祀りして毎日拝んでゐたと云ふ事である。
 明治十七年七月限りで、団平が越路太夫と手を切って、その九月から文楽座にとっては、一大敵国であった彦六座の三味線紋下にすはると云ふ大大事件が起った。その時は彦六座の改築祝ひで「三番叟」が出、お目見得の団平は真の三味線を弾いた。太夫は五世駒太夫、一世柳適太夫、四世住太夫、六世組太夫、三世大隅太夫で三味線は団平をシンに一世新左エ門、三世広作、三世源吉、などと云ふお歴々の連弾きで、道八は松吉(後の二世新左エ門)と共に豆喰ひに出してもらったのであるが、それはどんなに道八を感激させたか、我々の想像以上のものがあった。
後に道八が文楽座へ復帰してから、その「三番叟」がよく出る様になったが、いつもシンを弾くのは道八で、これは団平直傳の実に素晴しいもので、翁のひの「渚の真砂さくさくとして...」のあたりなどは、独特のもので、立派だった。
 道八は明治三十五年八月限り、一旦淨るりの世界から引退した。彼の十六歳の時、松島の文楽座から彦六座へ移り、爾来十七年間といふものを 稲荷座、明楽座とづつと同じ系統の芝居で働いてゐたが、何故あれほど好きな淨るりから身を退けたかといふことは誰しも知りたいところである。
 ある人は道八の性格なり生活が、同じ道の芸人とすっかり違ふので、合はなかったのだといひ、事実、道八はお抹茶が好きで旅へ出た時でも茶道具を携へて 自ら楽しんだり、人にふるまったりしてゐた。煙草入れにこっては それに似合ふ煙管を金目をいとはず造らせたといふことも聞く。姪の婿が絵描きで、今の大隅太夫を誘って日本画をなしきりに稽古したといふ人でもある。耳の大きい、額際の真角な、見るからに一理屈こねさうな親爺さんは楽屋内では附合ひにくい人であったかも知れない。
 しかし、これとは全く反対のことをいふ人もある。一にも二にも団平師匠に心酔してゐた道八であったから、師匠が手塩にかけた大隅太夫を一生のうちで一度は弾いてみることを念願としてゐたことは想像に難くない。ところが明治三十一年四月団平が急逝した時、大隅の相三味線は道八へ廻って来ずに、文楽で 呂太夫を弾いてゐた叶(後の三世清六)が選ばれた。この時の道八の落胆が、淨るりの世界に見きりをつけたのだといふのである。いかにも道八としてはありさうなことである。ところが縁は不思議なもので、彼が文楽に復帰した後、その二世大隅太夫の弟子であった静太夫が三世を襲名した時、道八は津太夫を離れて、その補導にまはったのである。
 先年亡くなった豊沢仙糸は団平の三味線の音は、他の誰よりも道八のようであったと語ってゐる。勿論団平のは道八より遥かに大きく 手厚かったことはいふまでもない。団平の身近にゐた道八は師匠が駒にシズをつけて独特の音を出す呼吸を充分学びとった。道八の三味線が恐ろしい音を出すのは さうしたわけである。間がひろく、その間の息つきが、一流のもので、世話ものよりも時代物に向いてゐたやうだ。 (大西)

          

 文楽で櫓下の竹本津太夫を弾いてゐた道八が何故四世大隅太夫の相三味線になったか、その間の事情をお話してみたい。
 四世大隅は当時静太夫と云ったが師匠の三世大隅が歿して十五回忌を迎る時、師の遺言もあったので静が大隅をつぐ事になり相三味線として友次郎の内諾を得てゐたがさてとなって友次郎に断られた。
そこで静は名前換も一時中止しようと思ってゐると「道八の三味線でやっては」とすゝめられた。これまでづつと津太夫の「堀川」「日向島」「すしや」「帯屋」「国性爺」「沼津」「太十」「山科閑居」「岡崎」「合邦」と大物ばかり弾いて来た当時六十近い道八から見ると一寸親子ほど違ったわけである。実はこの昭和二年二月に道八は津太夫の逆櫓を弾いてゐると突然「道八の三味線では語れん」と津太夫が云って舞台を下りてしまったことがある。その場は住太夫が代ってすんだが、この道八と、友次郎にことわられた大隅とがはしなくも結び合ふやうになった。二人はもと\/結び合ふ因縁があり、明治三十五年明治座で「廿四孝」の四段目の切りを弾いたきりずっと引退してゐた道八が、大正十三年十一月、廿二年ぶりで文楽へ帰る事になった時、兎に角長い間休んでいた人ではあるし、彦六系の人であったので誰も口上に出る太夫が無かった時、「私、云はせて貰ひます。」と口上役を買って出たのが静太夫で、道八は心から大隅に感謝した。そこで道八は津太夫と芸風の上から衝突した時ではあるし、文楽の奥役の人の勤めで若い静の大隅襲名の時から相三味線として指導の任に当った二人の息がぴったり合って披露興行の「御所桜」の「弁慶上使」は大変受けた。所が道八にきびしくいためつけられた大隅の淨るりはよい筈の「一の谷」の「組打」でも「壷坂」でもあまり評判がよくない。昭和五年の「勧進帳」で少し見直せたかと思ふと、次の「野崎村」では散々で、石割氏は、「思ふにこの罪は三味線の道八にありはしないか。大隅のあののどに「恨みのたけを友禅」の條りをあゝいふ風に三味線に弾かれて語れるだろうか。」と評して居る。道八が三味線をひき出してから 大隅は静時代より悪くなったと人々が噂するし、本人の大隅も、「私の声も考えないで、道八師匠は自分勝手の三味線を弾いて俺はこんなに堂々と三味線が弾けるぞと自分の三味線ばかりをきかせてゐる」と不平をこぼした時もあったさうである。しかし後年には 大隅太夫も「道八師匠に別れて静かに考へてみると、あの時代はまだ自分は本当の淨るりと云ふものがわからなかった。じっと自分の吹込んだレコードを聞いてゐると道八師匠のはげしい鮮明な明快な三味線の美しさがしみじみとわかる。道八師匠はえらい人だった」と四世大隅太夫は述懐して居る。 (吉永)

       

鶴沢道八は初めは、盲目の名人四世竹本住太夫を弾いてゐた二世鶴沢勝七の門弟であったが、勝七が病気になってから団平の門に入って、団平に可愛がられ、その激しい薫陶に依って、団平流の三味線弾きとなった。その芸は巾の広い、手厚い 大きな芸で 並々ならぬ腕を持ってゐた。初めは大阪松島の文楽座に出勤してゐたが、団平が彦六座の方へ代るにつれて、明治十七年頃から彦六座へ出勤してゐた。昔は鶴沢友松と云って、若手として随分鳴らしたものである。殊に 明治三十五年頃は当時の伊達太夫、後の六世竹本土佐太夫と東京の宮松亭へでたり明治座へ出たりして、東京では随分評判になった。その当時芝翫、後の歌右エ門の八重垣姫の人形振りに伊達太夫と共に床を勤めて大当りを取り、当時の三枚続きの錦絵にもなってゐる様な人気者である。明治三十五年八月を限りに一時舞台を引退した。之が三十四才の時である。それから神戸に居て、花隈の師匠をしたり、素人旦那衆の稽古などをして舞台を遠ざかってゐた。
大正十三年十一月、三世竹本津太夫の相三味線として御霊文楽座へ入座して「布引」の四段目、鳥羽離宮を勤めたが此の時友松から 鶴沢道八に改名した。 (安原)

         

道八と云ふ人の三味線は 間が延びると云ふ事をよく云はれてゐたが、成程一寸聞くとそんな風が見えないでもない。然しよく聞いて見ると、此の間を持ってゐる間に腹の中で色々仕事をしてゐるので、自然そう云ふ風に聞えるのではないかと思ってゐる。その証拠は「太功記」の段切とか、「合邦」の段切や、「堀川」猿回しなどを聞いてゐると、此のノリマを利かす処では必ずしも間は延びてゐない。今日「忠臣蔵」三段目と「堀川」猿回しを選んだ訳は、前の方では時代物風の弾き方、後の方では派手なノリマの三味線を聞いて道八の妙芸を偲んで頂きたいためである。
 此の道八は明治十五年、十四才の時、大阪の松島文楽座へ入座した。尤も八才の時、盲目の地唄の師匠、徳永星朝の処へ入門してその時から三味線を弾いてゐる。九才の時、二世鶴沢吉左エ門へ入門して鶴沢吉松となった。十四才で松島文楽座へ入座したからと云って決して中年から此の道へ入ったのではなかなか上達しないもので、十四才と云へばもう中年といへると思ふ。此の明治十五年の吉松から、鶴沢友松に改名して、此の友松時代が大正十三年 道八に改名する迄 約四十年間続いてゐる。此の時代が最も磨きをかけてゐた時代で、二世鶴沢勝七から、二世豊沢団平の門に入り 団平に近附いて色々苦労もし又勉強もした色々な話は 幾度も此の時間で放送された。団平の劇的な最後も 此の道八の膝を枕にしての事であった。明治三十四、五年当時の竹本伊達太夫、後の土佐太夫と共に東京_場町の宮松亭へ出てゐた頃は、東京の若い娘を熱中させたもので、大変な人気者であった。
(安原)

            

「今は時勢が変って、芸の勉強がしにくゝなりました。」と道八は語って居た。
第一に生活のことを考へねばならなくなったが、それではほんとうの勉強は出来ない、三度の食事の目当てもなく 着物は垢染みたものを着て 他人から「臭い\/」といはれる位 魂を打込んでしまはぬと勉強が出来ないといふのである。大団平に近づきたい一心から幽霊が出るといって借り手のなかった団平の隣家の空家に住むやうになったが 当時道八が彦六座から貰ってゐたお給金が二円で、その家の店貸が五円のところを二円に負けてもらったといふ話であるが、それで日々の生活をどうしてゐたのかと思ひ 師匠のうちに古くからゐる女中に「お腹がでけえへんだらお稽古もでけまへん。今のうちによばれなはれ」と師匠のうちの台所の片隅で御飯の振舞ひをうけたといふことも何度あったか知れない。丸象牙の撥一つ買ふことが出来ないものであったから、朋輩から借りてゐる始末でそれも返すことを忘れ勝ちであったから「ズボ友」と蔭口をたゝかれて、ついには誰一人貸してくれるものがなくなった。やっとのことで先だけ象牙の木撥を求めて これに仙花紙を捲いて蝋を塗って、ホントの象牙の撥に見せかけたものを使ってゐたのも、その当時のことである。このやうな生活の中でする稽古であるから、一心不乱である。師匠の撥遣ひ、指遣ひ、足取り、イキの一つ\/も、見のがさない。本人も一番苦しい生活をしてゐた時であったが、六十何年の間、あとにもさきにもこの時代ぐらひで稽古に張合ひのあったことはないと告白して居る。
団平も道八の熱心さを見てとって 兄弟子の源吉(後に仙左エ門から三世団平となった人)同様丁寧に教へてくれたといふことである。後には友松は「文章が弾ける」と折紙をつけたといふことである。文章が弾けるとは淨るりの表現が完全に出来るといふ意味にほかならない。 (大西)

          

 とにかく近代で 本当の名人として 万人に認められた二代目団平の芸を忠実に伝えることが出来たと云はれるのは 此の道八である。
それについて こんな話がある。昔は今日と比べて 素人義太夫も仲々盛であったが、其の中で貴鳳やギドウなどという上手な人もいた。そのギドウが忠臣蔵、九段目のカケ合いで得意の本蔵を語って、相手の大小天狗共の鼻をヘシ折ってしもうたことがあったが、その時の絃は 道八(友松)であった。
 ところが此の噂を前にきいて松葉屋、即ち先々代五代目広助が当日わざ\/出かけていって その九段目を聞いたのは、無論、名人団平の手をきくためであった。
そしてその後、蒲鉾三枚もって道八の許へお礼に出かけた。元来この広助は、団平ほどではないにしても 仲々の名人であったが、有名な倹約人で、宴会などの場合はもとより、すべて折の古いのを持ち帰り、家根板に使うために貯めていたと伝へられた位の人で、その広助が蒲鉾を三枚もお礼に持参したと云ふのは よく\/のことで、それだけ感謝した結果と判断される。
 先代大隅の一座が たしか東京であったか、「堀川」に「阿古屋」をこれも先代の清六と道八の両人にタテとツレを交代で勤めさせた時などでも、どうしても友松の方が上であったので、「ド変ンだけによう弾きよる」と大隅がいうていたそうだ。
しかしその友松時代に 或る時 さる素人の方を教えていたが、堀川のお俊のサワリ、例の
何の遠慮もないしょうの の所で、妻君が 違う\/ と思はず横から声をかけた。
この婦人は 梅吉と云うて 神戸花柳界の大姐さんで、美声で唄の巧い人であったが、大団平の艶ッポイサワリが耳にこびりついていたゝめ、つい我を忘れて鑓を入れたわけで 決して無理からぬことであり、実際、団平の妙技は到底自分等のような未熟者には真似の出来るものでないと友松自身 つくづく述懐していたのを聞いた人から直に聞いた。
 それから何でも 二十五、六才の頃であったが、伊達の相手(後の土佐)をして、加賀見山の廊下で 腰元達が 桜の花をもって戯れるところをやると 見物がワア\/云ふて喜ぶ。別に三味線の手に変ったところがあったわけではないが、何とも云へぬ味があるといふので、エライ評判であったから六代目広助、昔気質の堅い人で後に絃阿弥となった名人であるが、この広助が聞きにいって感心し、其の次に出た大隅と清六(いづれも先代)が、其段はただ枕だけ聞いて帰ってしまふたさうで、それは無論悪くはなかったらうが普通で、友松のやうな特色がなかったからでもあったらう。
 この伊達、即ち、後の土佐は 初めから 仲々人気があり、先代大隅と道八とがいろ\/と指導して修業させたこともある。ところが 追々と上達して来るにつれて人気もいや増して来る。そうなると又、いろ\/の事情も出来て来、とう\/仲違いして 別れてしまい、それから適当な相手も見つからず、それやこれやで、二十年許りも引退するやうになったのは 本人はもとよりこの道のためにも 甚だ残念なことであった。それでやう\/五十過ぎてから 先代津太夫の相手をして返り咲きと云ふ事になった。
 二十何年も引退してゐると 撥だこも無くなってしまったが、細をとって稽古をすると、この鮮かな腕前には 誰も敬服せぬものはなかったと 門人達が話して居る。
 何しろ芸事は 長唄、常磐津から大小鼓に謡まで、何でも精通して居たので、踊地のものをいち\/作曲し、猿之助を助けて「二人三番」その他を大成させたのは 皆さんご存知の事と思ふ。その代り、俗事にはサッパリ迂く、いつか元町で フト鶯を見て急に欲しくなったので、値も問わずに持帰り、その美しい音を聞いて無性に喜んでいたが、翌日、鳥屋から持って来たツケを妻君が見ると 予想より何十倍も高価なのに吃驚し、主人に知らさず、自分の身のまわりの品々を質入して 払ひをすませたことさへある。
これをおえつさんというて 踊りの巧かった人で前にいった梅吉の妹分、梅丸で、姉さんの死後のち添えになった人である。 (高安)

            

(三番叟) 「寿式三番叟」は能の「翁」から出てゐることは今更いふまでもない。それがいつごろから淨るりに採り入れられたかはよく判らないが、正徳二年(一七一二年)刊行された淨るりの段物集「鸚歌か薗」といふ竹本筑後掾(元祖義太夫)の語り物「式三番叟」三笠風流といふものが収められて居る。その後、宝暦十三年(一七六二年)豊竹座で上演された並木正三の「三十石_始」の大序へ劇中劇として「三番叟」の全文がのって居り、翁は「廿四孝」の十種香を語った鐘太夫、千歳は「太功記」十段目を語った麓太夫が勤めたといはれて居る。しかし作詞、作曲は誰の手になるものかは全く不明である。
 能の「翁」は昔は幕府の大禮に必ず勤められ 只今では正月初会又は追善や舞台開きなどに勤められて居るが 淨るりの方でも 舞台開きによく上演されて居り「_始」も「新舞台開場の祝儀として」とある。また近くは文楽座が松島で開場した時や、彦六座の改装記念興行にも豪華な顔触れで上演されて居り、昭和五年 四ツ橋文楽座が開場した時にも その開場披露から引続き本興行でも出て居る。翁は天下泰平を祝ひ、三番叟は五穀成就を願ふといふのであるから 初春興行などにはしばしば上演を見てゐる。他流の「三番叟」はいく種類もあっていろ\/趣向の変ったものもあるが、人形浄るりの方では、この「寿式三番叟」一つしか伝はって居ない。歌舞伎の方と同じく翁より三番叟の方に中心をおいて居るが、見た目本位 音楽の旋律を生かしたものとしては これも当代の行き方かと思ふ。人形は二つ出る。一人は「けんびし」といふ白塗りで髯のあるもの 今一人は「又平」といふ赤塗りの道化じみたもので「鈴段」に相当するところでは 種蒔きの振りから赤の方が段々踊りつかれて、ヘト\/になるのを白の方が嬉しがって無理に踊らせるところが愛嬌のある特徴である。
これを市川猿之助が歌舞伎にとり入れ、「二人三番叟」といって、息子の段四郎と瓜二つの似たところを利用して、同じ白塗りで踊ってゐる間に、どちらかが親か子か判らなくなる御愛嬌があり、これが大へん評判をとり、_々上演されて居る。道八の三味線は大音で 実に壮重味があり 而も軽妙であって 大劇場にも充分効果があるので 猿之助の舞台に引張り出され、この「三番叟」を一層面白いものにして居る。
 鶴沢道八は明治十五年六月、友松の名で松島の文楽座へはじめて出演したが、十七年二月には師匠の鶴沢勝七と共に彦六座へ移った。その年の九月、二世越路太夫と別れた大団平が彦六座へ入座して三味線の紋下の位置に坐った。この時から道八が多年敬慕していた団平の薫陶をうける糸口がひらけたわけであり、これは「私の芸運が強かったのだ」と、道八は話して居る。団平を迎へた九月は、また彦六座の改築ができた記念興行で、「寿式三番叟」が出て、お目見得の団平が、シンを弾いて友松の道八は光栄ある豆喰いの位置にあって、団平と同じ床に立ったのである。太夫は五世駒太夫、初代柳適太夫、四世住太夫、六世組太夫で、三味線のシンの団平のツレ弾きは初代新左エ門、三世広作(後の六世広助)五世源吉(後仙左エ門から三世団平)といった当時一流の顔触れ揃いで、実に壮観であったが、このお歴々の中に立交って後に二世新左エ門となった松吉と共に出演した二人の少年の感激は並一通りではなかったことと思ふ。道八の「三番叟」にはこのような思い出がある。
 このレコードは昭和十七年に吹込まれたもので、団平の「三番叟」を充分会得した道八に対して、翁を語っては当代随一である古靱太夫今日の山城少掾を配して、永く後世に残すことの出来たのは誠に名企画だったと思ふ。この吹込みのために出演者一同が一つの場所に集って稽古をしたのはただ一度切りだったといふことである。それでゐて、古靱太夫は道八の絃で、実に気持よく、朗々と語れたといってゐるし、道八は「古靱は巧いナ、巧いナ」と双方から感心してゐたといふことである。この成績はレコードの実際について充分お聞き願ひたい。
「それ豊秋津洲の大日本」以下は息と間とで道八が古靱太夫に斬り込んだものであり 逆に「太祝も神歌や」は古靱太夫が道八に斬り込んだものである。そして「青にぎて青丹よし奈良の都の」は道八と古靱太夫との芸が一つに溶けあったところであり、芸の上の真剣勝負がいかに面白く楽しいかが、このレコードで充分理解出来ると思ふ。

( それ豊秋津洲の...   ...地神の始め天照大神)

( 岩戸に篭らせ給ひし時...  ...すずしめと木綿襷)

( 太祝の神歌や...  ...たらりあがりららりとう)

( ところ千世迄...  ...ありうとう\/)

( とうとうと鳴る鼓...  ...扇の手こそ面白や)

( 青にぎて...  ...三曲を戴いたり)

( 滝の氷麗々と...  ...今日の御祈祷なり)

( ありはらや...  ...万歳楽)

( 万歳楽...  ...外へはやらじとぞ思ふ)

 只今の「万歳楽」のをはりで翁が左の袖をまいてかざし、右の中啓を面にあてるお馴染の型となり「今日の」でトン\/と足拍子を踏んで極る。
 次は能でいふ「揉みの段」で二人の三番叟が舞ふところから。「揉み」とは このかゝりの鼓の打ち方をいふ。

( 物の音に...  ...春は霞の立姿)

( あゝら芽出度やな...  ...御直り候へ)

( 某が元の座敷へ...  ...億万町)

(田をばぞんぶりぞ...  ...三日是を舞ふとかや)

 この合の手は「鈴の段」に相当するところであり、只今の合の手は二回繰返されたが、実際の舞台では二十三回繰返されるのが本格で 今日は人形次第、人形遣ひが疲れてくるとよい加減のところで終りの振りにもって行くので 三味線も切上げてゐる。

( 三社の神の舞楽より...   ...御代ぞめでたけれ)
(大西)

              

(布四) 「布引」の四段目松波琵琶の段は、道八が大正十三年十一月、二十三年ぶりで御霊文楽座の本座を踏んで、三世竹本津太夫の相三味線となった時の演しもので、道八の立派な藝は一般の浄瑠璃愛好者も楽屋内の人々も驚愕させたものである。レコード第一面は、最初の大三重は省略されてゐるが、貫目の立派な事、音の素晴しいところを御聴き願ひたい。

( きのふまで...  ...庭の紅葉ばかりなり)

 その後へ多田蔵人が、松波検校になりすまして、この鳥羽の離宮へ清盛のため幽閉されて居られる後白河法皇を慰めに来て、娘小桜に逢って妻、待宵の死を知る件がある。
次のレコードは平治、藤作、文五郎の三人の仕丁、所謂、三人上戸の出になるが、道八の絃は、前とすっかり変って軽妙になる。

( 紅葉の落ち葉掃きよせ\/...   ...暖気を衛士の篝火ならで)

鼻唄まじりに三人が暖をとってゐるところへ ツメ人形の局が出て「大事の紅葉を焚火にして、叡聞に達したら一通りでは済むまい」と咎めるので、一同びっくりして、焚火を消して狼狽へるが、すぐ「ご寵愛の紅葉を焚火にしたのは狼藉に似て狼藉でない。林間に酒を暖めて 紅葉を焚く。といふ詩の心に叶って、下々には心あるもの」と、却っておほめの言葉をいただいて、お酒まで下さると言ふことになる。

( 額を土に三人が...   と、そう\/管をまきあげし)

三人が悦に入りかゝったところへ蔵人の娘、小桜が、「折り焚けば、まだき楓ももえたって、日暮れの庭に紅葉散るらん」と言ふ法皇から下されの短冊をもって出るが、小桜を蔵人の娘と目星をつけてゐた平治が、父の假名、実名聞かにやおかぬとせめてかゝる。

( さあ女郎奴、有様にぬかさにや...   ...ゆけならゆくわいホ・・・・アハ・・・)

 琵琶の手は昔からかうした手がついてゐたのであらうが、それを更に琵琶らしく聞かす為にいろ\/と工夫を重ねてゐる。しかしこれを古いものを知ってゐるものからは、一つの異端者とも見られるかも知れない。
 では仕丁平治 実は難波の六郎が、稚ない小桜をつかまへて、父の名は源氏方の大将、多田の蔵人行綱であることを白状ささうと責めてゐるところへ 松波検校実は行綱が、後白河法皇のところから退つてくるところから、

( 奥御殿...   ...打ちつけに望む一物、松波が)

 これから我が子の責苦を目前にして 行綱は心の動揺を見せまいとして琵琶を弾じる。「いざやは諷はん」から平家になるが、これにつづく二上りの「是とても」の後で琵琶の音色を聞かす為、道八の特別に工夫した金を打った駒を用ひる。

( 胸に漣立ち騒ぐ...   ...うごかさずといふ事なし)

 次のところは荒縄で縛りあげた小桜を紅葉の梢高く、引きあげては落し、落しては引き上げられる。この恐しい光景のバックとなる琵琶の音の凄じいものをお聞き願ひたい。

( アゝ琴や三味線とはちがうて...   ...紅葉の古木の剱の山)

 堪りかねた行綱は、思はず階を転びおりて小桜を抱きしめるところで、仕丁平治は上衣を脱いで赤に金糸の縫ひとりをした見るからに逞しい力持ちの姿となり 箒に仕込んだ太刀で行綱に斬ってかゝる。

( 取乱さじとくひしばる...   ...上を下へとかへしける)
(大西)

           

(壷坂) 「壷坂」が初めて舞台にかけられたのは明治十二年で 場所は大江橋の席であった。その後大隅の為に団平の妻お千賀さんが筆を加へ、大団平が畢生の妙譜をつけて明治廿二年二月に稲荷の彦六座で上演された。
 それを江戸時代の弥次喜多の芝居の中にとりこんで 風呂で「壷坂」をうならせるのは一寸妙な話であるが、それだけ大衆にポピュラーなものだとも云へやう。又ロンドン大学のチャールズ・ダン教授も義太夫の稽古始めにこの「壷坂」を語られたさうである。私は此の間京の旅館にダンさんを訪ねて 何故始めに壷坂を選ばれたのかを聞いたらダンさんは、「筋が単純で人物が二人しか出ないので本当はむつかしいさうですが、私としては語り易いので」と云はれ、又「お里の犠牲の精神(ダンさんははっきりと日本語で、犠牲の精神と云はれたが) 英国人の私にもよく同情されるので下村海南の勧めで」稽古を始めたとの事であった。英国に「壷坂」が紹介されることも間もない事であろう。因に観音様のおかげで谷に飛込んだ二人が助かり沢市の目まで明くと云ふ話は不自然に思はないかとダンさんに聞くと、西洋でもキリストの奇蹟は度々語られるし、宗教物語としては別に変には思はないかと答へられた。
 余談はさておき道八の「壷坂」のレコードをかけよう。太夫は四世大隅太夫。私共はこの團平直系の道八の三味線の撥数と、間と音とを通して名人團平さへも偲ぶことが出来ると思ふ。始めの地唄「夢が浮世か浮世が夢か」は幕あきの気分を出すだけで、次の「鳥の声鐘の音」からが沢市唄って居る。思ひ出す程のどす汚い語り方に座頭の音づかひといふか盲目の声が出てゐる事に注意されたい。
 レコードでは途中を飛ばしてすぐ有名なお里のさわりになる。近頃では前受けばかりを狙ってお里の真情が少しも語れてゐないものが多いが、夫を思ふ一生懸命の貞節をさらりとネバつかないで大隅太夫に語る事が出来るやう弾いてゐる所、感心の外ない。こゝでオーツ、とか、ハッ\/と道八の掛声がふんだんに聞かれるのも道八を知る人にとってなつかしい一つである。
 妻の幸福を折って壷坂の谷間へ飛込んだ沢市のあとを追うてお里も飛び込むが、観音様の霊験で二人の命は助かる。ほのぼの白む暁の先に二人は息をふき返し目のあいた沢市は、前に居るお里にお前はどなたかとたづねて、お里にあなたの妻ではないかと云はれ、「これはしたり始めてお目にかゝります」と言ふが、こゝを「久しぶりで」と直すべきだと言った物知りがあるが、飛んでもない偏智奇論である。
 これから連弾になるが、この段切の万才は團平苦心の作曲で道八は結構に弾いて居る。人形でもお里と沢市が喜びに踊って誠に華やかな舞台で終る。 (吉永)

       

「壷坂」は團平の傑作で、文はその妻、千賀女の筆になったものであるが、貧乏な座頭が、たよりにした我妻の貞操を疑うて煩悶する心持がよく描かれて居り、道八の弾出しもドッシリと重く、一ッ宛の音の尻に余韻があって、何とも言へぬ良い味である。
 つづれさせてふ の辺から
 糊かい物を打盤の のところの手も余情があって面白い。

( 夢が浮世...   ...落ちて流るる妹背の山を)

次はサワリで
 切なる願に御利生の 無いとは如何なる報ぞや、や
 外に男のあるやうに なども面白く
 私は腹が立つわいな のところも荒くならずに力の籠ったものである。

( ととさんやかゝさんに...   ...袖や袂をひたすらん)
(高安)

         

(御所三) 「御所桜」は最後の花の時代 三世竹本津太夫から 今の四世竹本大隅太夫の相三味線へ変った昭和の初めの頃の芸で、六十四才位の時である。何分にも 三十五才から、五十六才迄の最も油の乗る時代を、舞台から退いてゐたので、外の人に比べると知ってゐる浄瑠璃が尠かったかも知れない。然し、その知ってゐる浄瑠璃の三味線の見事さと云ったら全く素晴しいものであり、その面影は之等残ってゐるレコードでよく鑑賞を 願ひたい。返す\/も約二十年の空白時代は道八の為にも又芸界の為にも惜しい事であった。 

( 偽り者と云はれては...   ...つれつもつれつ相生の)

 御聞きの通り道八の三味線は 思ひ入れの多い弾き方で、その為ツイ足が延びる。つまり、一寸間が延びる様に聞えるが、道八自身では此の間に腹の中で色ンな仕事をしてゐる。此処は聞く方でもよく買って上げねばならぬと思ふ。
 次は、「松と松との若緑」からであるが、その次「恋人も驚きて」の次の三味線で 恋人の弁慶が逃げて行く処の三味線を「ツチン ツチン」と弾いてゐる。或は少し道八式の弾過ぎではないかと言ふ人もあるかも知れないが、一寸面白い手ではないかと思ふ。此の辺は実に面白い三味線で、流石に名手であるとうなづかせられる。

( 松と松との...   ...泣くより外の詞なく)

 大隅太夫は 道八に引張られ乍らも仲々よく語ってゐる。此の頃の大隅は 道八の三味線の為か 足が延びるよく非難されてゐたが、どっちに責任があるか、此のレコードを御聞きになった方の判断に任せよう。

( 弁慶真中にどっかと座し...   ...殺したはお主の身代りだわ)

レコードは此処までで、妙な処で切れてゐる。
(安原)

         

(逆櫓) 此の逆櫓は、昭和六年頃の吹込みではないかと思ふ。太夫は今の四世竹本大隅太夫。此の時分、道八、大隅のイキが一番合ってゐた頃で これを聞いても、寸分のスキもないと云ふ緊張した芸を聞かせてくれる。殊に大隅の口捌きは実に爽やかで、これを助ける道八の三味線も誠に見事なものである。
 かう云ふ様なものになると、少々の稽古ではマクして、(口が廻らなくなってシドロモドロになる事を云ふ)、余程義太夫が腹に入ってゐないと、何を云ってゐるのか分らなくなる。文楽の太夫でも身体のコンディションがよくないと、中ところは語りくれぬものである。
 こう\/とこそ聞えけれ、から始める。

( こう\/とこそ...   ...是を逆櫓と云うわいのう)

 次は「艪拍子立てゝ押立てゝ」の処や「主梶、取梶」の処、それから「押戻し漕戻す」の次の合いの手の処、その辺の道八の名人芸を味っていただきたい。

( 總じて陸の戦ひは...   ...かんら からと打笑ひ)

 只今の「やっしし やっしし」は、余程声の修練が積んでゐないと 一ぺんに平太張って了ふ。大抵の太夫は此処で どうしたら声を潰さないで済むかと苦心するさうである。次の段切の「涙に咽ぶ腰折松」以下 道八の見事な三味線 大隅の巧妙な運び方、思はず御両人と呼びたくなる様な名演である。

( 推量に違はぬ上は...   ...今に残しける)

 道八の逆艪のレコードには二種類あり、一つは昭和四年頃の吹込のビクター、今一つは只今御聞きになった昭和六年頃のポリドール盤である。
(安原)

       

 「逆艪」は昭和六年頃に吹き込まれたものである。道八の元気な掛声を聞いてゐると文楽の床で大隅の左に低い姿勢で三味線をきゆっと構へた姿が目に浮んで来る。
 大隅の元気一杯な熱演と道八の見事な三味線とが溶けあって傑作だと思ふ。段切の道八の鮮かな三味線を充分味はっていただきたい。
(吉永)

          

(合邦)「合邦」は昭和七年頃の吹込みではないかと思ふ。「泣かねど親の慈悲心を」の此の段の聞かせ処から入ってゐる。レコードはポリドール盤であるが、戦災で原盤が失はれて了ってゐる様だ。太夫は四世大隅太夫。

( 泣かねど親の...   ...茶漬でも手向けてやりや)

 御聞きの様に道八の三味線は中ゝ派手で 聞かさうと云ふ所がないでもないが、芸も此の位になると 少々の気になる処位は すっ飛んで その妙芸に感心される。尤も掛け声は少し多すぎる様に思はれる。

( アゝ可愛いや...   ...恋の淵)

 太夫を三味線が引張り廻されてゐる様に弾いてゐる。然し中々聞いてゐて楽しい三味線である。次は「母親も今更呆れ我子の顔、只打守る計りなり」迄で、合邦のレコードは此処迄よりしか入れてない。これからのお聞きになる処「跡を慕ふて かちはだし」の処、太夫と三味線がぴったり合って大変面白く聞ける。
(安原)

        

(忠三) 「忠臣蔵」三段目の太夫は四世竹本大隅太夫。此の時代風な三味線に御心を留めて御鑑賞願ひたい。

( 程もあらせず塩谷判官...   ...我夫ならぬ夫な重ねそ)

 間の大きい、道八らしい三味線で、よくその面影が伺はれる。特に此処と云ふ聞かし処はないが、これで三味線弾きは腹の中で中々の仕事をしてゐる。

( ハァこりやこれ新左今の歌...)

 これから判官が切り付ける処であるが、此のレコードの終り「放せ本蔵、放しやれとせり合ふ内、館も俄に騒ぎ出し 家中の諸武士大小名、 押へて刀もぎ取るやら、師直を介抱やら、上を下へと」の辺は殿中の騒ぎの様子を三味線で見事に弾き表はして、此の辺の情景何とも云へません。

( 判官腹にすえ兼ね...   ...上を下へと)
(安原)

          

(堀川) 今度は世話物の、三味線中心のもの「堀川」。太夫は四世大隅太夫、ツレ弾きは團六時代の六世寛治。道八は團平直系の人であるから、此の猿廻しは勿論、團平の手で弾いてゐる。

( コレ\/\/聟さん...   ...さんな又あろ かいな)

 道八はこの様なノッて来る処になると顔を一寸右に向けて、左目で客の方を見ると云ふ癖があった。此のレコードを録音してゐる時もきっとそんな恰好してゐただろうと思ふ。此のレコードは昭和三年頃の吹込みで 道八六十才位と思ふ。

( 日和を見たらば落ちて給も...   ...辿り行く)

 此の妙音を持った名人も年には敵し難く、昭和十九年十一月二十八日午前十時 神戸市下山手通六丁目の自宅で 七十六才を以てなくなった。
(安原)