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浄るり名盤集資料 女義太夫三人(小清、東広、呂昇)

               

使われた音源 (管理人加筆分)
ライロホン  壷坂観音霊験記 沢市内 竹本小清
米コロンビア 生写朝顔話 大井川の段 竹本小清
米コロンビア 壷坂観音霊験記 沢市内 竹本東猿
リーガル   箱根霊験躄仇討 三人上戸 竹本東広 豊沢東重
?リーガル   御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 竹本東広 豊沢仙平 
?リーガル   菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 竹本東広 豊沢仙平
?リーガル   絵本太功記 尼ヶ崎の段 竹本東広 豊沢仙平
リーガル   壷坂観音霊験記  竹本東広 豊沢仙平
?キリン   生写朝顔話  竹本東広 豊沢仙平
ニッポノホン 壷坂観音霊験記  豊竹呂昇
ニッポノホン 生写朝顔話 大井川 豊竹呂昇
ニッポノホン 新版歌祭文 野崎村 豊竹呂昇
ニッポノホン 傾城阿波の鳴門 豊竹呂昇
ニッポノホン 傾城恋飛脚 新口村 豊竹呂昇
?ニッポノホン 御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 豊竹呂昇
ニッポノホン 絵本太功記 尼ヶ崎の段 豊竹呂昇 
ニッポノホン 恋娘昔八丈 鈴ヶ森の段 豊竹呂昇 
ニッポノホン 伽羅先代萩 御殿の段 豊竹呂昇 

                   

放送記録
146回 昭和26年1月19日 解説:大西 竹本東広の「箱根霊験」と東猿の「壷坂」
201回 昭和26年6月1日 解説:大西 竹本東広の「尼ヶ崎」と「寺子屋」
337回 昭和27年2月29日 解説:木村 竹本東広の「弁慶上使」と「寺子屋」
351回 昭和27年3月25日 解説:高安 竹本小清、豊竹呂昇、竹本東広の「壷坂」と「大井川」
36回 昭和25年6月6日 解説:高安 豊竹呂昇の「野崎村」
158回 昭和26年2月13日 解説:吉永 豊竹呂昇の「鳴門」(1)
166回 昭和26年2月23日 解説:吉永 豊竹呂昇の「鳴門」(2)
258回 昭和26年9月28日 解説:山口 豊竹呂昇の「新口村」「弁慶上使」「尼ヶ崎」

              

(小清)
竹本小清は父親の初代鶴沢清八が江戸に滞在中の文久二年に生れ、それ以来十五才の明治九年に帰阪するまでそこに居た。父の清八は品のよい太った人で荒いものが得意で腕が強く、傍に居られぬ位であったから 鬼清八といわれたそうで、その父の厳しい仕込をうけたせいもあってか 負けぬ気で自信の強い江戸っ児のような気風をもって居た。
幼い頃四五才の頃からよく父の稽古を聞覚えたりするので、自然本格的に仕込むことになったが、それが中々やかましいもので、お八ッを取上げるのはもとより 時には食事を減らされたりしたこともあったそうである。
それでそうした烈しい修業の結果追々上達し筋もよいというので八才の時男装して寄席へ出たりしたが、十五才の時大阪へ帰ると当時大阪で女義はあまり持てはやされなかったので、北新地の置屋立峯(梶川席)から義太夫芸者で出たのが十七才位のときである。
しかし流石に父の仕込だけあって年の割には腕はそこ\/に出来て居たと見え、ある時堂島のお客につれられて来た五代目で名人の弥太夫をそれと知らずに、望まれるまゝ四谷を弾いたところ、十七八の若さでこれだけ弾けるかと賞められた。それが清八の娘とわかったので弥太夫の方がテレて、おとうさんには内証\/といわれて大いに面目を施したはよかったが、朋輩からは若いくせに生意気なとそねまれ のけ者にされた。
芸の方は法善寺の津太夫その他の名手に教えをうけたが、わけては清水町の名人団平の許へ通うて熱心に稽古をうけた。それも稼業柄夜が更けるのを朝早くから出掛けるが、いつも出掛けに大神宮と父の写真を拝むのを忘れなかったといふ。
その頃時々温習会が開かれたが、堂島からお米の積俵などして貰ったこともあり、それに二見のお爺さん(後の摂津大掾)や法善寺の津太夫などが「それ小清が浄るりやるさかい皆シンショウに聞きや」とゆうて皆に聞かせた、というのは浄るりも巧いが、それによって団平の話方がわかるからであった。
中将姫、伊賀八、布引三、菅原四など殊に巧で三味線も上手で引語でしたが、口八丁手八丁で貴田(後の三代目越路)など小僧扱だった。それに御座敷でも一寸したお客では相手にしない。「そんな浄るりでは弾けんから、誰ぞほかの妓に弾いて貰いなさい」とエライ鼻息でお客も遊びに来たのか叱られに来たのかわからぬという始末だからあまり流行りそうにもない。殊にその頃は唯今と違い宴会も少く約束というのがあまり無かったので内政は火の車、その中に父清八も亡くなる。丁度二十五才の明治十九年、それやこれやで随分御難つづきであったが天道人を殺さずといふか、薩摩の伊集院さんとかが来阪し花屋で泊っていた時、小清の浄るりを聞いて非常に喜び、以来此方の手蔓で上京して各方面の貴顯の方々の後援を受けるようになった。終には大阪を引上げ女義として東京の高座へ出演することになったのが二十九才 明治二十三年の冬であった。
其後東京女義界の重鎮として活躍したが、晩年は六代目菊五郎の愛顧を受け親しく同優方へ出入りしていたと聞く。これは多分、六代目が義太夫物を上演する時の参考に役立たせるためではなかったかと察せられる。六代目の最後は菅原の寺子屋を研究しておった最中とかに同家を訪れて脳溢血で倒れたということである。
容貌は美人という方ではないが、どこか魅力があったものと見えて、方々で華やかな挿話を残して居る。その中振ったのは先代羽左エ門から申込まれて拒絶したことで、そこにまたこの人の意地の強い一面が出ているように思われる。

(東広)
東広も女として中々立派な語手であるが、それもその筈、名人の組太夫や道八などに仕込まれた。ある時道八に千本桜の鮨屋を教わり梶原でウンといじめられてヘタリ込んで翌日とうとう稽古を休んだが「あれだけやれるなら大抵の男の太夫に負けまい」と道八が話していたそうで、それだけ厳しい修業をして来た。 (高安)

竹本東広は本名西山ユキ。
明治九年十二月 四国の丸亀で生れた。
父の故郷の大和三本松へ引取られて居たが、後に父について大阪の高津二番丁へ出、そこで成人した。
十四才の頃、竹本松葉太夫の門にはいり、松重と名乗ったのが芸道への第一歩である。
その後、当時 女義太夫界で鳴らして居た竹本東猿の妹分になり 東広と改めた。
芸風は地味で、渋い時代ものや、世話の言葉ものに優れ、美声の豊竹呂昇と一座を組んで名コンビを謳われた。
竹本組大夫、鶴沢道八に私淑し、死ぬ迄、師匠の処へ稽古に通うという芸道熱心であったが、昭和十五年十二月、六十五才であった。
東広は体重廿三貫という大兵肥満で、御大典の時は関取に変装して立派なお角力さんに見えた位だから、声量も豊富で発声も楽々しくやって居る。東広は岩井風呂、赤垣、沼津、油屋、躄、帯屋、吃又、志渡寺というような言葉ものが得意であった、レコードには沼津の外、十八番ものが 殆んど吹き込まれて居ない。
舞台へ出て居る間は、自分の後へ美声の呂昇が控えて居るから勢い こんな渋いものをやらねばならなかったのだが、晩年に、鶴沢道八のもとで_らえた中将姫や先代萩は仲々立派なものであった。
とかく、自分の利慾に執着せず 一座の繁栄を計るという思いやりの深い人格者で、師匠としての竹本組大夫、鶴沢道八にもよく仕えたが、多勢の自分の弟子(東重や東歌はまだ健在)を我子のように可愛がり、背いて行った子の後さえも秘かに心配して居た。
人がよいものだから、誰の言う事もすぐに受け入れる、有難い神様だ、結構な佛様だと聞くと、すぐにお祀りをする。それで家の中は神様の百貨店のような感じがあった。 (木村)

(呂昇)
豊竹呂昇は明治七年八月四日名古屋の塩物問屋の娘に生れ、本名永田仲と云った。芸事の盛んな土地柄、小学校に這入った頃から常磐津を習った。その美声を見込んで 伯父が義太夫節をすゝめたのがきっかけで十二のときにこの地で土佐太夫と呼ばれた浪越太夫の門に入り、十九才の時 明治二十五才 豊竹呂太夫の弟子となり、大阪高津清津橋の播重席へ出勤してすぐ三枚目に据わり、其の千日前進出と共に女義太夫の黄金時代を作り上げた。大正十三年、五十一才で芸界を引退したが、昭和四年の摂津大掾十三回忌追善浄るりに「白石」を語ったのが最後の舞台で、翌五年六月七日、五十七才で歿した。呂昇は名前から云えば俗にはら\/屋と云って大きい声で名高かった初代呂太夫の弟子である。しかし呂太夫からはそう沢山習うたでもなさそうであることはその語振りでもわかる。
 それから絃阿弥その他の名手からどれ程学び得たかは聊か問題で、いつかさる人が絃阿弥に稽古して貰ふて帰った呂昇のことを「あれはどうだっしやろ」とたずねました処「あら女や」とたった一言で片づけたといふ話がある。
 しかし女義太夫といえばいつも先づ呂昇が第一に数えられる位に有名であったが、実力から云へば、名人団平の女中をして覚えたという小清などの方がズット上わ手である。芸の方と人気とは、また別である。
大体女義太夫が始ったのは可なり古いらしく、今から百三十年も以前に大阪の御霊さんで女義太夫の興行があった記録もあり、また其の自分に阿波座で女太夫が殺されたのを一夜附けの狂言にして三日目に禁止されたことがある。
 江戸の方では天保十二年、今から百余年前ですが娘浄るりが三十六人も召捕になって牢へ入れられた事がある。当時は芸の巧拙を云わず 容貌の善悪を評判して見物が押しかけたそうで、自然いろ\/弊害が出て来たものであろう。丁度明治時代の堂摺連のようで、窮所へ来ると、化粧した美しい太夫の顔が多少汗ばんでボット桜色になるし、髷の蝶々が今に崩れようとする時、聴衆、見物という方が正しいかも知れないが、下駄札を叩いて、どうする\/と怒鳴る様はまるで狂人のようであった。呂昇はきりょうは良し声はよし声量も可成りタップリだったので、一般の受けがよかったのは無論である。その代りに又艶種が色々あったらしく、殊に三代目越路太夫とのロマンスなどは甚だ名高いものだが、そんなのが却って人気を煽ったのか方々に呂昇の席というのは出来た。道頓堀の日本橋から東へ行った処の清津橋の角に一つ、後には竹横、辨天座の両横手に一つ、それから女義の修練道場ともいうべき千日前の播重席から辻一つ隔て南に一つという素晴しい勢であった。

(野崎村)
呂昇は決してただ艶気ばかりの人ではなく、中々の精力家で、また理知的な分子も相当あった。そして晩年には過労の結果高血壓に悩まされ、故稲田教授も、それについて大分心配されたが、先代萩のような軽い曲でも一段語ると直ちに二百何十迄も上る。それで旅行中でも自家用の血壓計持参で、それで計らぬと承知出来ぬという程の神経過敏さであったが、とにかくそれでは餘り危険過ぎるからと 休養を勧めても一向應じない。大隅は腎臓、糖尿の上高血壓で随分危い状態であったが、自分が休むと一座三十餘が糊口に困るからと高安の警告にも拘らず台湾に出かけて直に尿毒症で斃れた。
この例をひいて彼女を説いたら何でも壷坂か何かを習った関係でもあったか 胸にこたえたと見え やっと引退に決めた。それでも引退興行が三年かかったそうで、その間に一度休養した話も聞いたが、遂に狭心症とかで失くなった。五十七才と云へば藝として花の盛りともいうべき年輩であった。
彼女の語り口は語るというより歌う方に近いものであった。野崎などでも 久作老夫婦の情義を語り活かすというよりも若い久松お染やお光の戀物語の歌として聞けばまた別の趣があらう。お染久松の一件はもと油屋の娘二才のお染十三才の丁稚久松が誤って川とか井戸とかへ落として死なせたので自分も首くくって死んだのが実話だと伝えられている。近頃の研究では久松は豊能郡麻田村走井、今の豊中の浄行寺六代目の住職了信の三男で二十才、約二百四十年前の宝永四年(一七〇七)正月廿八日の夜、自害したお染は十七才であった事がわかった。それを先づ歌祭文に作り、歌舞伎から浄るり、紀海音、菅専助から安永九年(一七八〇)事件後七十三年に近松半二作の新版歌祭文が上演された。 (高安)

呂昇は持前の美しい艶のある声が仇となって、「語り」の邪魔になると若い頃はよく云はれたが、呂昇の三味線の師匠であった松葉屋の広助は「女は女らしく優美に語るがよい」と無理な注文はしなかった。呂昇も又、女義太夫の特色を弁へて居て、師匠の呂太夫から叩き上げられた寺子屋とか、太十とか、八陣とかの強い大物が好きであったが 時代ばなれした大物は客うけがしないと知って居たので、やらなかった。それを知らない人は呂昇の時代ものの床本を見て、こんなもの呂昇語って居たのかと不思議に思ふやうである。兎に角呂昇は「朝顔」とか「阿波の鳴門」とか「酒屋」とか「中将姫」とか、「先代萩」とかを柔かく、美しく語って情合を出した。
呂昇には二人の立派な成人した子があり、晩年は夙川の家の上の方に別邸を建てて二人の子供を住ませ、自分は召使と暮して居ました。そして子思ひであると同時に又母思ひであった。呂昇にとっては、自分の為、すべてを犠牲にして生きてくれた母、若い時分から髪を短く切り、中年過ぎからは全く剃りさげてクリ\/とした尼姿になってまでして、美しい女性によくある色艶ある噂から遠ざかり、興行ごろから呂昇を守った母、呂昇がのどを痛めた時は好きなかしわを一生断って、我が名につらなる兵庫の長田神社に願をかけた母、我が子の為、無理をしても劇場の人達に手の切れる様なポチを惜しげもなくハヅんだ母、新しい野菜を食べさせようと天満の市場まで車にのってわざ\/出かけた母、それ程気を配り乍らも旅興行の時には一度も早く帰れと云はなかった気強い所のある母、その母も大正十年八十四才でなくなりましたが、呂昇は母の有難さが身に沁みて忘れようとしても忘れられなかったと見え、呂昇の家の佛間には等身よりやゝ小さい母の像が祭られて居たさうで、その母の像を朝夕心から礼拝して居る呂昇の美しい姿を見られた茶の先生の源元さんは その親思ひの情に思はず涙をこぼされたさうである。
どの語りものにも 愛と云ふ心を失ってはならぬと広助は呂昇に教へたが、愛がなければ泣くも笑ふも怒るも喜ぶも 口先の真似事になり、情合の乏しい冷たいものになる。呂昇の美しい心が呂昇の浄るりを美しく語らせ、あれ程の人気を収めたと思ふ。 (吉永)

(女義太夫)
女浄るりの歴史といへば、永禄の時代に六字南無右エ門などといふ女の太夫が、京都の四條河原で 操芝居を興行した記録がある。何といっても明治期に入って 小清、綾之助、東猿、呂昇などが、活躍した頃がその黄金時代であらう。
浄るりといふものは やはり男のする芸でであって 女の場合 男のする浄るりを真似るといふ限界をとることがなかったのではないかと思はれる。
女義太夫の第一人者といはれた呂昇でさへ 絃阿弥、六世広助から 「あれは女や」と一言で片づけられた一事でもって それが判る。
それは、男に比して女の肉体的な條件の相違が第一の原因であらう。しかも昭和の今日に於いても 女義太夫の命脈は絶えて居ない。それには 女芸人としての魅力でもって、世間の関心をつないで来たといふ背景を否定することは出来ない。
しかし 真面目な芸人は その肉体的な制約にうち勝って、常に男の芸域に近づかうとして居るし、その努力はへっぽこな男太夫以上のものがある。一方には世間の侮りをものともせず襲いくる誘惑を阻けようとする精進は尊いものさへある。かうした精進 努力のあとが女義太夫の歴史ではないかと思ふ。

(呂昇)
呂昇は名古屋ですでに女義太夫の花形としてもてはやされてゐたが、大阪へ出て 文楽座や彦六座の錚々たる男太夫の活躍する土地で 本格的な修業を始めようとするには 余程の決意があったものと思ふ。当時、呂昇は 文楽座を一つの学校と心得て 興行の毎に 床本と弁当を携えて通ひ、ジツと耳を傾けてゐた。攝津大掾は こんなことを洩らして居る。
「呂昇は呂太夫の弟子だから 私は一度も稽古をしたことはない。しかし私の語り方は すっかりとって了ってゐるかも知れない。私達の弟子は 差向ひで稽古するのは語り物の格を教へるだけで 舞台で語るようには教へられるものではない。どんなものでも 舞台に上するまでには様々の工夫をつんで これならばといふ自信が出来て はじめて語るのである。 が多くの弟子達は 私の差向ひの稽古に満足して 私の力をこめた舞台の芸を聞くものは少ない。だから、みな一通り浄るりの格は出来上っても、私の語り口の眞髄を会得してゐるものは 案外少いかも知れない。 そこへ行くと呂昇は 私の舞台の語り口はすっかり承知してゐることと思ふ。」
師匠の呂太夫は 「おまへの声で 私の語り口を そのまゝ眞似ようとしても無駄なことだ。稽古は私に構はず どこかしことなくやるがよい。 私は自分の語り物だけを教へてやる。艶物は他によい師匠をとるがよい」
と 師匠の呂太夫はいって 自ら奔走して沢山の師匠を紹介した。
当時の名人といはれた人で 呂昇が教へてうけたものは 五世弥太夫 二世津太夫(法善寺の師匠)五世住太夫(越太夫の)三味線では 團平 五世吉兵エ 五世松葉屋広助 と挙げて来ると、実に大した顔觸れとなる。
かうした修業の果に 呂昇独特の艶麗華美な浄るりが出来た。呂昇は また女義太夫の品位を高めることに力を尽して居る。当時は今日と違って芸人を卑めるといふ昔からの因習があったが、とりわけ女義太夫ともなると、地位も一段と低く、従って収入も少く、実に惨めなもので その日\/の生活に追はれるところから ツイ余儀なく身持を崩してかゝらねばならないやうなことがあって、折角 天分のある若い女義太夫が肝腎の芸道に励むことがむづかしく 他の職に転じるものも少くなかったといふ状態であった。
当時、文化人や知識階級の人々の後援で 毎日一回 南地の演舞場に催されてゐた共楽会に見出されて 呂昇が出演することになった。呂昇はこれを寄せに来るお客以外の人々に女義太夫を認めさす絶好の機会と喜んだ。ところが、播重はこれを喜ばず 度々苦情を出したり 妨害をするやうになったので はじめて大阪へ出て、五年間といふもの この席一ヶ所を修行の道場として守りつづけて来た播重席と袂を分つたのである。
かうして常打小屋を失った呂昇は 間もなく後援する人があって 北の曽根崎橋の南詰の萬亭といふのを改築して、照玉、未虎といった人気ものと一座を組んで出演するやうになった。この一座を 都保美連といふ。この座名のいはれは「都ての美はしき風儀を保つ」といふので すべての都といふを「つ」「保つ」を「ぼ」美しい風儀の美を「み」と読ますが、やがて大輪の花を咲かす蕾の意味にも通じだしたのだろう。また、その規約といふのが大へんで
「顧客に招かれたる時は 礼儀をたいし 謙譲を主とし、かりそめにも野卑の言行をなすべからず」
「風儀を高尚ならしむるため 日常にても外出の際は必づ髪を櫛り衣紋を正し 仮りにも前垂を用ゆる等の野卑なる風俗をなすべからず」
随分固苦しい文字が列べられて居るが、女芸人の風俗を正しくして品位を高めるべく品位を高めるべく どれだけ努力してゐたかが、これで推測される。明治三十年 呂昇の二十四才の時のこと。

(鈴ヶ森)
舞台はお定まりの髯題目の石塔のある鈴ヶ森の仕置場で、見るからにものものしい竹矢来が巡らされて居る。江戸の町を引廻しにされたお駒が傷々しく後手にしばられたまゝ、チンバの裸馬の背にのせられて来る。「城木屋お駒」と記した幟や、罪状を書いた札をもったもの 抜身の鎗をかついだものに 前後をとりかこまれて 矢来の向ふを上手から下手へ進みます。浄るりは 物悲しい説教ががり。

 ( 数さへ消えて行く ― 
         二親に歎きをかけまた )

お駒は夫殺しの大罪といはれて居るが、お駒には、元侍の才三郎といふ恋人があって、この恋人が紛失の茶入を探して苦労をしてゐる。お駒が家のためにいや\/乍ら盃をした喜蔵といふ男が どうやらその茶入を持ってゐる様子なので、心中立の証拠にそれを見せてくれと迫ってゐる時 縁の下に忍んでゐた才三郎が引ぱり出されて喜蔵と争ひとなる。お駒はこの才三郎危しと見て、喜蔵の肋を抉ぐった。いはば二世を契った恋人のため 正当防衛である。喜蔵は才三郎の親の仇と知れて、お駒の命赦免となる。これはこの鈴ヶ森の段切で明かになる。 (大西)

(先代萩)
呂昇はこの先代萩について呂昇は旅日記に斯う書いてゐる。
「政岡は浄るりに出てくる女性の中で一番慕はしく思ひます。偉い女と云ふ外ないでせう。政岡を語るのは相手が御主人のお世継ぎと可愛いゝ自分の子だから、此の間の政岡は唯やさしい愛情に充ちた女でやらねばならぬが、栄が出て来てからは四面皆敵の中に陥し入れられた一人者のみじめな政岡で、此場合は意志一点ばりの女、寸分の油断も隙もない政岡を語り出さねばなりません。結末で愛児のなきがらを抱いてから口説く所は 人目も恥ぢない普通の女となって身も世もあらぬ愁嘆の情をむき出しにした政岡、最初はそんな風ですが、 中頃からは調子を替へて五十四郡の礎のあたりはもう煩悶も何も彼も離れて 忠義の為に犠牲を厭はぬ大きな性格の政岡となります。この語り分けに苦心します。」

 (どれこしらへよう...
            ...かしきおけ)

御殿の中の炊事だからすべてお茶のお作法のように上品に語る。さて呂昇は大変お茶の道に造詣の深かった人で、呂昇にお茶を教へた源元さんの話では呂昇の夙川の家には立派な茶室があって本席のお茶席も出来、又茶事もしたとの事だ。しかしめんどうなお茶事ではなく 極く気楽にやりたいと云ふ事で楽しんでして居た。
かう云ふ呂昇の心掛が自然にとけ込んで品のよい先代萩のままたきの場が出来ているのだらう。次に美しい三味線が続いて、流す涙の水こぼし、と人形でもお米のこぼれないやうにと右手で水をうけてゐる。云ふまでもなく昔は、女義太夫はすべて弾き語りと決ってゐたが、呂昇も弾き語りであった。呂昇の意見では 別に三味線を入れると何となく大袈裟になり、又愛嬌も少くなり 其の上語りと糸とが別々になると、三味線弾きと語り手との調和がうまくとれぬ場合間が抜けたり、呼吸が外れたりして、どうも具合が悪い、弾き語りだと両方に気を配らねばならぬので、気骨は折れるがそつがないから結局安心だと云っている。

 ( 流す涙の...
         あれもうまゝぢや )

これからお芝居ではチンが来て、御膳をたべる。若君がそれを見て、例の有名な「アレ乳母、おりや、アノチンになりたい」と云ふ所、乳母の泣くのを見て「コレ乳母、何んで泣くぞいやい。そちや千松の食べぬ内、おれ一人せはしいと思ふなら、モウ堪忍して泣いてくれな。 そち達二人が食べぬ内は何時迄も俺は堪へて居る。俺が食べても、乳母が食べずに死にやったら悪いなア千松、そちが死んでも悪いなア」 で「乳母の今泣いたのは、アリヤ、飯の早う出来る咒ひ、何も悲しい事はござりませぬ。」と 政岡の泣き笑ひになる。折柄、梶原の奥方 栄御前が見舞にやって来て頼朝公よりの下されもののお菓子を前に置くと、手を出される鶴喜代君を政岡が御病気の障りになると止めると、栄御前が頼朝公のお菓子を疑ふのかと詰寄る。その時千松が奥から走り出て一口に食べるので八汐はびっくりして、毒殺の企みが露見しては大変と千松を引寄せて懐剱で突き差す。政岡は驚きながらも若君一大事と若君に引添ふ。千松の嬲り殺しにされるのを涙一滴こぼさず、じっと堪へる政岡は唯若君大事、忠義一心であった。この様子を見て居た栄御前は、沖の井、八汐を次の間へやって、二人きりになると、年頃仕込みしそなたの願望成就してさぞ悦び、隠す事はない、千松と若君とを取替へておいたに違ひない。それなら我が仲間、何れあとから相談しようが、人に知られぬやうにと一人呑み込んで館に帰る。このあとの我が子の死骸に抱きついて泣き叫ぶ政岡の有名なサワリになる。 (吉永)