朝夜と四条大橋から眺める鴨川もその水面の輝きに初夏を感じさせるこの頃である。遠い昔にこの川は人の手によってつくられ、その治水によって計画都市が造営された。しかしながら、自然風土、人の営みにより計画都市は崩れ、結局の所、氏神を中心とした幾つかの地域が発達した。その一つ祇園社を中心とした都の東地域を舞台とした浄瑠璃に『近頃河原の達引』がある。祇園の遊女お俊と井筒屋の息子伝兵衛の話で、祇園、四条河原、東堀川一条、裏寺を経由した道行、聖護院の森のうち、今は堀川の段のみが上演されている。そして御承知のように名人達がこの段を劇的な解釈で練り上げたわけで、それについては多くの著作がある。まったく蛇足であるが、院本によると、二人は堀川から、現在の東大路丸太町の熊野神社あたりから吉田山にかけ広がっていた聖護院の森をめざした。そこで心中のはずであったが、殺された官左衛門の悪事が露顕して伝兵衛の免罪がなり、一転、めでたしいう結末で終わる。しかし、この浄瑠璃の根底には実際にあったであろう先斗町近江屋の遊女お俊と三条釜座の呉服商の息子伝兵衛の心中事件がモチーフとして流れていると思われる。聖護院の境内には、堀川の段にゆかりのある山城少掾や演劇人らが心中した二人のための供養塔を建立している。また、別の所には墓も残っている。五条坂の入り口より一つ南から清水に抜ける小道を上ると鳥辺山に至る。『化野の露、鳥辺野の煙』と呼ばれた東地域の葬送の地である。上ってすぐの実報寺には奥まった墓地の壁際にひっそりと一対の小さな墓石がある。これがお俊と伝兵衛の墓と伝えられているものである。隣の本寿寺の墓地には堀川の段で老婆とお鶴が稽古する『鳥辺山』の心中に関わると伝えられる一対の墓がある。こちらはお堂のように丁寧に世話されていて、これをお俊と伝兵衛の墓と紹介している資料も多い。もはや事実はこの際問題ないであろう。町の記憶として心中の伝承が残っているということである。自然風土、心象風景・町の記憶といった心の風土と言葉が混然一体となったものが日本語の正体であるなら、それを駆使して創られたものが浄瑠璃であると思うのである。今日、自然と心の風土を失いかけた言語芸術は何処へ行くのだろうか?。本寿寺の心中した二人の墓のまわりにはかつて浄瑠璃、義太夫の為に生きた多くの人々が寄り添うように永眠している。風土と共にあった時代だったと想像できる。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。早いものでこのサイトを始めて一年が経ちました。なかなか思いどおりに進まないもので、今年度になり、よんどころない事情で更新がぺースダウンしています。ここが正念場でしょうか。特集3の音源は三巨頭のうち三代津太夫の伊賀越道中双六の沼津の段を取り上げました。次回の特集は、三巨頭、六代土佐太夫を予定していますので少しお待ちください。また、私見については三巨頭まとめてするつもりです。それから、サイトに関する御問い合わせのメールについては歓迎いたしますので、今後とも宜しくお願い致します。
2003. 5. 18 大枝山人