中欧を流れるドナウ川の中流にメルクという町がある。観光のドナウ川下りで拠点となる所である。この町の上流は指輪伝説の故郷のひとつとしても知られているし、町の丘の上には何万もの古書を抱える荘厳なベネディクト派修道院が建っていて、エーコの『薔薇の名前』のモデルと考えられている。まくらで脱線すると観光ガイドになってしまうが、極東に住む人間にさえもこのくらいの情報は理解でき、原物を目の当たりにして音楽や本の内容まで連想される世の中になったということである。まったくもって、明治以来の翻訳や文化移転の努力の結実であろうか。さて、最近文楽がユネスコの無形文化遺産に登録されたそうである。これにも外国と文化を相互理解する大変な努力があったであろう。一般的なところで、異邦人自身が興味を持ったことは、例えば古くはポール・クローデル『朝日の中の黒い鳥』やロラン・バルト『表微の帝国』や劇研究家たちの著作で伺い知ることができるが、日本から発信型の交流活動事業も地道に続けられてきた。海外にある日本文化センター所蔵図書には古典芸能の入門書が配備されているし、BUNRAKUと刷られた故・越路大夫、喜左衛門師匠らの載った外国語版の紹介パンフレットも配られていた。文楽人形の展示も各地でされているようで、ヨーロッパの小都市の博物館などで傾城に出会い驚くこともある。そんな博物館や劇場では売店で文楽の絵葉書も販売されている。そして、なにより技芸員の方たちが過去何度も海外公演をされている。古典芸能の海外公演は日本週間と銘打った総合的プログラムなどで盛り上げるので多数の観客が鑑賞に集い、その際内容の構造や意味合いまで詳しく解説がなされるわけである。今回、世界的文化遺産に登録されたことについては上記のように今まで関わった多数の人々に対して敬意を表すべき出来事であると思うのである。しかしながら、いま本当に大切なことはグローバルな視点ではなく、ローカルな日常にある。冒頭のドナウ川下りで観光船は音楽の都ウィーンに至る。何故に音楽の都と呼ばれるのか。市民は日常の娯楽に対していたって禁欲的であるが、音楽に関する話題は街全体の関心事である。オペラ新脚色、コンサート、音楽家の消息等など。そして市内の環状道路わきにある殿堂ムジークフェラインの定期演奏会の立ち見席ではいつも決まった面々が参集する。市内の音楽専門店へ行けばあらゆる質問に答えてくれる店員もいる。日常の無形な物は創りがたく、貴重なものだとしみじみ感じるのである。これからも、本サイトは義太夫に関して少しでも日常の空気のように関与したいと思っている。
特集4にお付き合いいただきありがとうございました。最近は更新が遅れがちになっていますが、どうか長い目で見てやって下さい。特集4は三巨頭のうち土佐太夫を取り上げました。音源が非常に少なく日が当たらないことが多いですが、忘れてはならない人です。次回の特集は、三巨頭の三人目、ニ代古靱太夫を予定していますので少しお待ちください。今年の私は個人的生活では波瀾に満ちた一年でしたが、何とか乗り切ることができました。とは言え、それにかまけて大変不勉強で失礼しています。来年こそはと問題の先送りにしておきます。
2003. 11. 30 大枝山人