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特集7・8 編集後記

最近、起業というものがもてはやされ、経済事件や経済用語さえ日常の話題に上るようになり、ビジネスモデルという言葉もすっかり定着し始めている。私事で申し訳ないが、最近はどういう訳か専門以外に企業経営にまで関わるようになってきた。それというのも、どうやら世の中が新しい時代に突入したためである。顕在化してきた大きな要因は構造改革という名で押し進められている政策の影響が大きい。それは、あらゆる分野でアメリカ流経営学の論理を植え付けようとするものである。私的企業以外に、国からの指導や補助金などが及ぶ範囲にも目に見える成果や成果を生み出す明確なビジネスモデル(優位性、戦略、市場分析、予測が盛り込まれた虎の巻)の提示が要求され、競争原理により組織の淘汰が進められる。その論理では試行錯誤や偶然性の中で無形なもの生み出す過程など評価がされないのである。伝統芸能も対象として例外ではない。効率化、利便性から字幕といった人形浄瑠璃の構造に手を付け始めたことや発券のIT化はその影響の端的な例ではないのか。また、ビジネスモデルというものは中身の技術がぼちぼちでも成果を出すものである。興行の世界では代々使われてきた優れものビジネスモデルとして襲名や追善記念というものが知られているが、最近の伝統芸能での出来事を見ていると少し安易に考えられていないだろうか。我々鑑賞者の責務として無形なものの評価は真剣にしていかなければならない。そんな時代の分岐点ではないかと強く感じる次第である。さらにもう一点、そろそろ将来の為に、協会や劇場は営業・興行面について経営専門の人材育成を検討した方が良いのではないだろうか。もちろん無形なものを理解し、大切に思ってくれる人であることは当然であるが。

さて、諸般の事情により、更新がぺースダウンしています中、おつき合い頂き有り難うございます。特集7は十代豊竹若太夫の音源として、その力強い語りによる仮名手本忠臣蔵 九段目を紹介しました。山科閑居の段は難曲として特に有名で、歴代の紋下格が九段目で悩み続けた様子は例えば、泣菫の『茶話』中(越路の山科)にて越路と師匠摂津大掾のやり取りの逸話が紹介されています。また、展示資料の記述にありましたように若太夫は三和会に参加した人でもあります。三和会は、戦後に組合運動が元となり形成された団体で昭和25年から三越劇場を拠点に自立して興行を行い、昭和38年に松竹派因会と合流して文楽協会が設立されるまで続きました。新しい時代を迎えた文楽興行における旧体制との対決、文楽座の機能解体と再構築など長期の組織変化の発端と位置付けられるのではないでしょうか。昭和期文楽の組織体変遷を見るにつけ、戦後民主主義の潮流と植民地的な外来文化の移入にさらされた中で、文楽はよくぞ渡りきれたと関係者の努力には頭の下がる思いがします。

次に、特集8では四代竹本大隅太夫と初代鶴澤道八を取り上げました。紹介した音源壺坂寺で、道八の三味線には圧倒させられます。また、道八の修行に関して詳しいことは『道八藝談』で述べられていますが、ニ代団平とともにあった時代を我々にも想像させてくれることには大いに感謝したいと思います。さらに作曲にも随分と力を尽くした人で、上図の竹本座創立二百五十年記念興行(昭和九年道頓堀浪花座番附、竹本座跡にて)でも世継曽我の復活にあたり作曲を手掛けています。

最後に、こちらの不手際により、本編集後記より特集8が先に進んでしました。また、資料の整理と同時進行の為、進行が遅れがちで大変失礼しています。次回の特集9は、八代竹本綱太夫の若い時期を取り上げますので暫くお待ちください。

  2005. 5. 29 大枝山人