太夫が舞台で使う床本。非文楽系の近松座、竹豊座で竹本錦太夫が使用したものを展示しました。床本ついてはいろんな本で触れられていますが、本書きについては『かたつむり』に、実物の画像は三世竹本越路太夫寄贈品目録で確認することができます。
竹本錦太夫はもと素義であったが、近松座、竹豊座、竹本座にに出座した。ニッポノホンからいくつかレコードも出している。また、妻は女義の初団という人で京都を中心に活動していた。
表紙をめくると5行に並んだ文が書いてあります。字体は勘亭流といいます。また、旋律が朱と呼ばれる通り赤で書き加えてあります。この1項には本の伝来を書いたり、形見の場合 亡師追福の為門人家族立会のもと誰某に譲る由の朱印が押されていたりします。また、別あつらえの表紙を付けて、1項目の前に見開きで風流な絵が書かれていたりもします。字体については『義太夫稽古本字体便覧』や勘亭流の辞書を、さらに朱に興味があれば、『浄曲の新研究』浄瑠璃の曲節の項、『浄瑠璃史考説』、『文楽 声と音と響き』を参照して下さい。
太夫ものの場合、最終項には上演で使った時の参考番付が添付されていることがあります。また、本書きの署名も記入されています。この本の場合、添付番付の下に奥付けとして天王寺登鶴と書かれています。
登鶴は明治期後半から大正期にいた専門の本書きです。本書きは登鶴以前にはあぢ川、桂、そして登鶴と同時期くらいに遊楽という人がいました。遊楽は、桂を手本にしたらしいです。また、遊楽は稽古本の原版も書いています。同じく稽古本の原版を書いている君太夫という人もいました。昭和期に入ると野村青雲、稲田松隆がいます。義太夫専門雑誌に広告も載せています。その他、あまり有名でない本書き、町の師匠や能書家の書いたもの等いろいろ見ますが、以上の人と比べるとかなり字体が違います。いくつかの書体見本は『かたつむり』巻末付録で見ることができます。また、松隆は『織大夫夜話』太夫の持物に床本画像が載っています。