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名人のおもかげ資料 明治から大正への義太夫節 p1〜14

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 本朝廿四孝 十種香の段 竹本摂津大掾 六世豊澤廣助     邦楽芸能全集−SP盤復刻−(日本コロンビア COCJ-36744-5)
米コロンビア 義経千本桜 すしやの段 三世竹本大隅太夫 三世鶴澤清六
米コロンビア 近頃河原の達引 堀川猿廻し 二世竹本津太夫 四世豊澤猿糸  部分音源へ 

       

放送記録
173回 昭和26年3月6日 解説:山城少掾(豊竹) 安原(仙三) 大西(重孝)明治初期の義太夫界

        

大西 豊澤團平さんがですね。春太夫さんで本当の浄瑠璃もおしまいやと申されましたそうですが、この五世春太夫さんが明治十年に亡くなっておられますので、この明治十年を境にして前の浄瑠璃とその後の浄瑠璃とに大きな変化ができたと思います。それはどういうように変化をして来たでしょうか。
山城 さて、私は明治二十二年に東京からこちらにへ修行に参りまして、太夫では摂津大掾、並びにうちの法善寺師匠、それからはらはら屋の呂太夫さん、大隅さんというような方、三味線では團平師匠、五代目、六代目廣助師匠という古い方でありましたが、そういう方がまあ義太夫の御大将であって、それ以前に亡くなられた方の浄瑠璃は伺ったことはございません。ましてや私は十一年に生れて、十年に亡くなった春太夫という師匠の浄瑠璃は伺ったことはございません。ただ人づてにいろ\/なお話を伺っておりますけれども、とにかく今、大西さんのおっしゃったように、團平師匠が古浄瑠璃の風は五代目春太夫でしまいだとおっしゃったことは私、子供心に耳にしております。ですが、その風は大隅師匠に沢山あるということは二見の越路師匠がおっしゃっておりました。それで、わしは師匠の浄瑠璃を常に崇拝して聴いたから、やれないことはないが、どうも師匠のような音調でないから、ましてまあ越路風というとおかしいですが、こういうような何で・・・タテ声で売って来たから、これは商売だから、やりたいけれども、師匠のような浄瑠璃は語れないというようなことをおっしゃって、師匠の浄瑠璃の型を聴こうと思うたら、今の大隅太夫の浄瑠璃が師匠によく似ているからということを、私よく伺っておりました。
大西 そうすると、ここで幸い大掾さんの十八番の「十種香」のレコードがございますが、これを一つ聴いていただきましょう。
山城 大隅師匠の方が春太夫さんに似ているというのですからね。
安原 大掾さんのを承ると、あれは春太夫さんじゃないということはおぼろ気ながら想像つくと思えるのですが、今おっしゃったような声の違いから、ああいうふうなことに変ったんでございましょうね。
山城 今更やり方を変えるとお客さんが承知しない。俺は商売だから自分の声の持前のところで浄瑠璃語っているが、大隅太夫の方が師匠の風はあるということをよくおっしゃってましたが、それが私考えると、やはり「野崎村」を伺っても、大隅さんのは、マクラの「あとに娘は気もいそ\/」というふうなところが、まるでつかんで放りつけるようなやり方をしますが、大掾師匠は、やはり娘さんみたいなやさしいものに聴えますから、やはり、ぱあーっとぶっつけるようなところが古浄瑠璃のよさかしらんと思いますね。
安原 まあ一つ大掾さんのを聴いてみましょう。

( 摂津大掾の「十種香」 ) 参考音源:邦楽芸能全集−SP盤復刻−(日本コロンビア COCJ-36744-5)

安原 実物は、これより大分よかったというお話なんでございますが、このレコードは大分悪いということを聞いているのですが・・・。
山城 元の何といいますか。
安原 蝋管ですね。
山城 あれで、土居家(土居通夫氏のこと)にお渡しになって売り物にしないという約束だったということは、私聞いております。それがいつの間にか、こういう平板ができ上がったのですから、そこへ、まあ今と違って、あの時分には大分製る方も下手くそだったのでしょう。三味線も水の中で弾いているような音ですね。しかし、私なんぞは耳にさしていただいておりますから、なるほどこうだったという思い出がありますが、初めてこのレコードを聴いた方は、あまりありがたくないだろうと思いますね。
安原 春太夫さんの系統には、大掾さんと大隅さんがいらっしゃるわけでございますが、大隅さんが團平さんにあんなふうに叩かれて、さっきお師匠さんのお話のような、春太夫系がああいうふうに大隅さんに残っているというお話承ったのですが、やはりここで春太夫というのが、大掾と、大隅との二つの系統に分かれたように思えるのですが、
山城 大掾さんなどは、それをよく御承知でやっておられるのですから・・・。

( 三世大隅太夫の「寿し屋」 )

大西 これは大隅さんは春太夫さんの直系であるけれども、結局彦六にゆかれて大成されて、この大成の蔭には大團平さんがおられた。これはまた大隅さんの天分もありましたけれども、團平さんの力が働いて、春太夫系統とは少し違った流派というのですか浄瑠璃ができたということになりますが・・・。
山城 團平師匠も摂津さん ― 越路さんと別れてられて、そして彦六へ行かれたのですが・・・。

安原 まあ團平さんの この影響というものは、相当大きなものだったのでございますね。
大西 團平さんは一つの主張をこういうようにやろうという一つの主張をもってかかっておられたのであろうと思います。
安原 その團平という方は有名な長門太夫さんを弾いておられた方ですね。それでまあ前の系統といった春太夫の系統に、長門太夫の系統があるわけでございますね。
大西 文楽座の櫓下に直られたのが明治五年ですから、次に大掾さん・・・。
山城 その間に、太夫さんが・・・。
大西 そうでした。四代目長門太夫となられた方がありまして、次に大掾さん、それから三代目の越路はんが、大正十三年に亡くなられているのですが、五十何年というものはやはり春太夫の系統が続いて来たものでありますものね。その越路さんが亡くなられると、三代目の津太夫、山城さんの兄弟子になる方、これからの津太夫の系統の方が現在の山城さんまで続くということに、文楽の主流をなしているということになりますね。
安原 そうすると、今大体法善寺津太夫さんの系統が今の文楽の主流になっているわけで、山城少掾さんはその嫡流でございますね。法善寺の津太夫さんの「堀川の猿廻し」ございますから、それを一つやってみましょうか。

( 二世津太夫の「堀川」 ) 

大西 山城さんのお師匠さんの
山城 師匠のなんです。
大西 技巧派の方じゃなくて、無技巧の中に何となしに・・・
山城 まあ大掾師匠なり、大隅師匠なり、私のところの師匠なりのやられることはみんな違うのが面白いのですね。 何となしに。
大西 今までの中で、團平さんしか三味線の方のお話が出なかったようですが、團平さん以外に一つ・・・。
山城 なか\/立派な方が沢山ありました。
大西 あなたがお聴きになった範囲で・・・。
山城 松葉屋の五代目廣助師匠ですかね。忠臣蔵の七ツ目を弾かれて舞台でおかるの“会いたかったであろうに”と言うところ、その松葉の師匠は大変間のいい方だったのですね。そこで大変結構だったのですが、それを大掾さんの方なんか、偶然に舞台でそれが出来上って、絶句じゃないでしょうが、何か、ふっとよい間ができたんで そんなようなまわりになったらしいですね。それが大変よかたんで、お二人ながら、床を下りて来て、これからああいうふうな具合にやるように、ということになったということで、大変言い廻しが立派だったのですが。
安原 それから、清六師匠。
山城 それから松屋町の師匠、江戸堀の五代目の吉兵エ師匠もあります。いろいろ皆さん古い方は古い方でやはり御自分独特の何かいいところがありましたね。
大西 中古の三味線の出世頭は三世清六師匠に、今は山端へ隠棲されている六世友次郎ですね。
安原 五代目の松葉屋の廣助さん、五代目吉兵エさんなんかのいいのがレコードに残ってないというのは惜しいですね。
山城 まあ永い間の盛衰は沢山ありましたものね。栄枯盛衰は何十遍となしにありました。私ら十二から っておりまする時分から、御霊の文楽のデク芝居なんていうものはもうできなくなるぞ、ここに文楽座というものがあったんだというような立札が立つぞというようなことも言われておりましたもので・・・それが今日まで六十年しぶ\/ながら・・・
安原 私は潰れるという説は全然信用しないのですが、これはまあ後継者がなくなると潰れるかもしれませんけれど、後継者のある以上、これだけ立派な芸術というものは必ず潰れないと思っております。
大西 これで明治期の人形浄瑠璃の名人上手の方のお話を終えることになりますが、ただラジオが耳に訴えるお仕事のために、人形さんのことを省略さしてもらって、それは別の機会に譲りまして、現在文楽の方の櫓下には山城さんが居られて、これは法善寺の津太夫師匠の系統、これが主流をなしておって、これに対抗する流派、それがありませんのが残念なことで、それが、彦六 文楽が対抗しておった、ああいうような時代と同じように競争があれば、文楽もまた大きな、華やかな時代を迎えることが出来ると思います。今日はお忙しいお疲れのところ・・・。
安原 どうもありがとうございました。