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名人のおもかげ資料 六世鶴沢友次郎 p1〜35

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 二世竹本津太夫・四世豊澤猿糸      部分音源
ほうがく 相生松          弾語り 六世鶴澤友次郎             (音源の試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
コロンビア 近頃河原の達引 堀川猿廻しの段 三世竹本津太夫・六世鶴澤友次郎      三世竹本津太夫 義太夫名演集 DISC 3(日本コロンビア COCJ-36411)
ビクター 義経千本桜 すしやの段 二世豊竹古靱太夫・六世鶴澤友次郎          義太夫選集 豊竹山城少掾(ビクター伝統文化振興財団 VZCG 8214)
ニッポノホン 傾城反魂香 吃又の段 三世竹本津太夫・六世鶴澤友次郎 解説文なし   (音源の試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
コロンビア 仮名手本忠臣蔵 勘平腹切の段 三世竹本津太夫・六世鶴澤友次郎 解説文なし 三世竹本津太夫 義太夫名演集 DISC 4(日本コロンビア COCJ-36412)

         

放送記録

265回 昭和26年10月19日 解説:安原(仙三)鶴沢友次郎のすしや
292回           解説:安原 鶴沢友次郎の「堀川」
303回 昭和27年1月8日 解説:安原 鶴沢友次郎の「相生松」「堀川」
317回 昭和27年2月1日 解説:大西(重孝)鶴沢友次郎のすしや
322回 昭和27年2月8日 解説:大西 鶴沢友次郎のすしや
332回 昭和27年2月22日 解説:吉永(孝雄) 鶴沢友次郎の吃又
434回 昭和27年9月12日 解説:吉永 鶴沢友次郎の勘平切腹

               

 六世鶴沢友次郎は本名を山本大次郎と言って、明治七年一月七日京都東洞院五條で生まれた。父が芸事を好み、中でも義太夫の三味線をよくしたので、友次郎も年少より三味線を好み十歳の時、七世鶴沢三二の弟子となり、明治十九年、大阪へ出て、五世豊沢広助に入門、同年五月松島文楽座へ、小庄の名ではじめて出演した。二十六年九月 亡父の名前からとって鶴沢大造と改名、更に三十一年五月には四世豊沢猿糸となり、明治四十五年二月 三十九才で鶴沢家の宗家である六世鶴沢友次郎を襲名した。大正十五年二月 (一説には三月)文楽座三味線の紋下に直り、昭和二十六年十月八日午 后一時五十分、七十八歳で亡くなる迄、終始 文楽座にあって人形浄るりの為、力を致した三味線の名手である。


友次郎という人
 友次郎の山端の家は、漱石の虞美人草に出て来る「平八茶屋」の近くで、美しい高野川が眼の下を流れ、対岸には小さな翠の山が迫って居た。床の間には近松の書いた遊女の畫讃が掛けてあった。
 扨て話は、六十幾年か前に遡る。友次郎が大阪へ三味線の修行に出たのは明治十九年、十三才の時であったが、伏見から蒸気船に乗り大阪の八軒家、今の天満に着き、その足で二代目 長尾太夫の家に厄介になり待望の松島文楽座に出る事になった。何しろその頃、序幕の開くのは今と違って午前六時で、毎朝四時に飛びおきると、顔も洗はず、一里余りの道を松島へと出かける。午前四時と一口に云っても夏はともかく、冬の間は眞暗である。小庄の友次郎は平野町を西へ ざこば、江の子島、旧府庁前へ出て、木津川の水できまって顔を洗うことにしていた。橋を渡ると臭い南京町になる。鼻を押へてそこを通り抜けると古寺があって、その裏手の墓地から時々人魂が飛び出して肝をつぶしたこともあるようだ。その折の十一月、「白石噺」が文楽で出た時、コレラが流行って、文楽の太夫、三味線ひきの中にも休演者が出て、予定の時間に幕が開かない。幸ひ小庄の友次郎は立稽古の時分から一所懸命稽古して覚えてゐたから代役に選ばれ、序幕から序切迄、七八人の太夫の三味線を一人で弾いて大任を果たしたので無事芝居が続けられ面目を施した。その後明治廿四年十六才の時、さの太夫(後の越路太夫)の合三味線として、越路太夫(後の摂津大掾)五代目広助一座に加わって東京へ出た。一撥々々に小言を受けた此の一年間が、小庄にとっては血の出るやうな修業であった。十七才の春、待望の故郷、京の南座に出ることになったが、自分の運命の定まる時とて一七日の塩断ちをして神に祈った。その七日の満願の日に師匠の広助が急病で休んだので一同代役で心配してゐると、越路(後の摂津大掾)が小庄に代役をさすと言い渡した。始めは夢かと驚いたが、何と言っても七日間の塩断ちで身もやせ、歩く元気さへなかったが、爰が地獄極楽の境目だと勇気を揮って越路の指導を受けて、見事、広助の代役を成し遂げた。それから順風に帆をあげ、とん\/ と出世をしたが、まだ\/ 五代目広助から見れば、物足りぬ所があっただろう。明治三十八年一月 御霊文楽座で「菅原」の通しが出た時、法善寺の津太夫の「道明寺」をひく事になった。何しろ大役であるから当時、猿糸と名乗ってゐた友次郎は、早速師匠の広助の所へ稽古に行ったが、あとで広助は、お前の三味線は豆しぼりの手拭で鉢巻してゐると皮肉った。矢張り若いので 道真公の気品が出ないのである。猿糸の友次郎は毎日天満宮へお祈りして此鉢巻がとれますように、懸命に努力しつづけた。後に、此の師匠から人を介して養子の話があった時、「芸の相続ならともかく、財産の相続はごめんだ」と断った話はあまりにも有名である。(吉永)

 友次郎は十四才の明治二十年に大序をぬける文楽の幕下を卒業。明治二十六年二十才の時、鶴沢大造となり、立派な一人前の三味線弾きになってゐた。今日の名人となる土台はこの二十才になる迄の間に既に築き上げられた。友次郎は「幼い時でないと腕が柔くないとは一般に云はれる事だが、それよりも大事な事は幼い時の方が記憶力が好いので、早く覚える事の為に幼い時より稽古せねば覚えられない。廿を越すとそろ\/色気も出て来て遊びも覚える様になる。廿迄に何でも一通りは覚えてしまわねばなりません。廿以後は磨きをかけるだけです。」と言った事がある。明治三十一年五月、四世豊沢猿糸を名乗り豊沢家の人になった。此の時代は一番希望に燃えてゐた時で、師の広助に代って法善寺津太夫の相三味線を勤めたり、五世野沢吉兵エの代り役で摂津大掾の三味線を弾いた事もある。明治三十五年九月九日、小松宮の御前で摂津大掾の十種香と法善寺津太夫の忠臣蔵九段目とを一人で弾くと云う破格な名誉もあった。当時広助は病気勝ち、吉兵エも事情があったので、人気者の猿糸 即ち友次郎が勤めたのであろう。此の時は二十九才である。明治四十五年、六世鶴沢友次郎と云ふ鶴沢家の宗家の名称を継いだ。その後三世竹本津太夫を弾き、大正十五年三月文楽座の三味線紋下となったが、その頃より病気勝ちで、昭和六年津太夫の相三味線を鶴沢綱造さんに譲って、一時文楽の床より引退した。昭和十四年十月、再び津太夫の三味線となり「沼津」と、十一月「大文字屋」を弾いたが、これが文楽舞台の最後であったかと思ふ。昭和二十六年九月、今一度床へ上ることを楽しみにしてゐたようであるが、遂にその望みも絶えた事は、嘸残念であったろう。
 友次郎は当時三世清六と芸の上の好敵手で、清六の方は團平張りの、どちらかと云えば派手な方だったが、友次郎は太夫を立てて内輪に内輪にと弾かれたので損をした。三味線のツボも一寸変ってゐたので独特の音色が出たのだらう。「紙冶」の茶屋場はどうしても此の友次郎の音でないと小春の気持ちが出て来ない。又「忠臣蔵」の四段目判官切腹の段も、独特の三味線であった。
 京都、山端のお宅妙音庵に引退していた頃の友次郎の話に、「どうも、昔の人を感心する癖がありますが、昔の人を追い越す様に努力せねばなりません。」また、「義太夫の三味線は弾き過ぎてはいけません。南画の絵の筆のかすれや白の空間の味 あれを心得ておかぬと三味線の妙味が出ません。」
晩年は軽い中風で、左の手が少々不自由の為、専ら語って許り居たが、その浄るりの面白さと言ったら全く震ひ付く程であった。昭和二十三年春、京都で「伊勢物語」を二時間に亘って語ったときは聴衆は惜しい\/と讃嘆声を久しうした。(安原)

 鶴沢家の家訓に「智に勇を三筋に寄せて。三味線を。胸には弾きて手に弾くな。弾けよ弾くなよ。心すなほに。古稀宗家判」とある。「智に勇」と言ふのは、論語にあるところの「子曰く、智者は惑はず、仁者は憂へず。勇者は懼れず」からとったのではないかと思ったが、「これについて何かお話願へないでせうか」と頼むと、「ええこれは私の家に伝はる教へでしてね。初代鶴沢文蔵と言ふ、後に二世鶴沢友次郎となった三味線弾きの名手の残された教へなのです。三味線といふものは決して手先のわざではなくて、浄るりの精神を弾くものだと言ふのです。そして太夫を助けて弾くべき所は思ふ存分に弾くが、太夫の聞かせ所は決して弾き立て弾きまくってはいかん。そうすると太夫の邪魔になると言ふのです。三味線はどこ迄も女房役で太夫を引き立て太夫を助ける役目だと言ふのです。どんなに上手だからと言っても、自分の腕を見せようと弾きまくって、やんやと見物の拍手をうけてそれが却って太夫の芸の邪魔になったり、太夫を殺してしまっては、本当の三味線弾きではないのです。つまり三味線といふ芸道は、わざよりも精神が大切だと言ふ事を教へられたものなのです。」と言はれた。この巻物は貰って今も大切に保存して居る。
 小庄と言ってまだ十代の時から、さの太夫時代の名人、越路をひいて居たが、越路太夫も友次郎もどちらも大変な遊び好きで大阪で言ふ極道者であった。お茶屋に入りびたっては、越路太夫は師匠の摂津大掾から、友次郎の方は五代目広助からそれぞれ何度も勘当を受けた。或る時は自分の出番をすっぽ抜かして代役の三味線を聞きに芸者を連れて行き、客席からうまい\/と拍手したと言ふ逸話も残ってゐるが、遊んでゐても浄るりだけは忘れなかった。勘当中でも師匠が大物を語ると聞くと、越路と二人でこっそりと聴きに出かけたといふ。従って若い時には、質屋の羽織ばかり借りて着てゐたので、「お前達の羽織は来るたんびに紋が違うとるがな」と冷やかされたさうである。
 扨、友次郎は、昭和十四年十一月に津太夫の「沼津」を弾いて舞台を終へた後、十一月三十日に、京都の家で脳溢血で倒れた。それで十四年の十二月には休み、翌昭和十五年の一月から、再び舞台に出て、一月には津の「彌作鎌腹」、三月には「帯屋」、四月には「鰻谷」、五月には「徳太夫住家」、六月には「橋本」を弾いて舞台を離れた。そして余生を楽しみつつ、京都の山端に住んでいた。
 たま\/文部省では、今のうちに音のライブラリーの一つとして、義太夫の風をとらうとして、友次郎を中心に仕事を始めて居たが、その途端に亡くなったことは本当に残念である。(吉永)

友次郎と太夫運
 友次郎は若い時から、好い太夫を弾いた人で、修業盛りの鶴沢大造時代、年で云へば二十代の頃に、さの太夫、後の三世越路太夫を弾いた。明治三十年の頃、その人気と出世とを、そねんだせいか、さの太夫の間が割かれた。それで一時やけ気味になってゐたが、明治三十一年四世豊沢猿糸を継いでから再び立直り、その後五世豊沢廣助、即ち松葉家に可愛がられた。当時広助は法善寺津太夫を弾いてゐたが、その代役はいつも此の若い猿糸が受持った。松葉家歿後はそのまま法善寺津太夫の正式の合三味線となり、時には摂津大掾の三味線も弾いたことがあった。此の時代が友次郎の一番売出しの時で、「堀川」のレコードは丁度その当時明治三十八年の暮 吹込と推定される。太夫は法善寺津太夫、ツレ弾きは、猿作後の鱗糸である。友次郎三十二才の頃で、レコードはコロンビア盤で五面ある。

(_祝言の盃 ― ―  ヨリ)

 法善寺が引退した後は、三世竹本南部太夫の相三味線となった。南部太夫は大変声の美しい太夫で世話物が得意であった。此の南部太夫と共に吹込んだ「寺子屋」のいろは送りは、明治四十二年の吹込み。
此の頃の友次郎はまだ猿糸と云ってゐたが、大変活々した弾き方をしてゐる。友次郎三十六才の頃のものである。
明治四十五年、四世鶴沢猿糸から六世鶴沢友次郎と云ふ大きな名跡を相続したが、此の時、太夫は三世竹本津太夫、即ち今の山城少掾の前の文楽座櫓下、今の四世津太夫の父親、通常、村上の津太夫と云はれる太夫、此の人の相三味線を約二十年勤めた。大正の初めの頃の、友次郎独特と云はれるものの一つに「忠臣蔵」四段目がある。それは、友次郎四十五才頃のもの。
次は同じく津太夫とイキの一番合ってゐた昭和の初め頃の「忠臣蔵」六段目。此の頃から吹込みは電気になってゐる。友次郎五十六才頃の吹込みである。
中々美事な三味線で、「忠臣蔵」の中では六段目は皮肉なものである。
次は山城少掾との「すしや」。三世津太夫と一時分れた友次郎は山城少掾が古靭太夫と云ってゐた時代、昭和八年頃その相三味線を弾いてゐた。この時代は友次郎六十二、三才の頃だろう。(安原)

<相生松> (音源の試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
 相生の松は寛政年間に初代鶴沢寛治の作曲したもの。それを松屋清七、後の三世鶴沢友次郎が補ったが、久しい間友次郎家に埋もれていた。それを六世友次郎が再調して世に出したものである。レコードは昭和八年十二月友次郎が大阪の邦楽レコードへ入れたもので、友次郎の知人の間にだけ記念として分けられた。
この曲は謡の「高砂」が土台となってゐるが、それに浄るりの節と三味線の手とが附いてあり、その上、鼓の一調が加はってゐる。鼓は近代の名人望月朴清が手を付けてゐる。但しこれは六世友次郎の補ったもので、元の曲は三味線だけである。十二分位の曲である。昭和十年の正月と思ふが、此の曲が文楽座の人々で放送された記憶がある。
 鼓を打ってゐるのは、望月太津吉であって、朴清ではない。
 此の吹込みは別に大したけいこもせず、試験的に入れられたものである。友次郎は、出来に不満足であった様で、私達にも「今一度やり直しますからそれ迄余り出さずにおいて下さい」とよく話していた。そのうち病気になったので、やり直しも遂に出来なくなり、之が唯一の弾語りのレコードとなった。(安原)

<堀川>
「猿廻し」の手には三つありまして、普通一般は団平の手、それから三世吉兵エの手、之れは清八が弾いてゐる。それから五世広助の手、之れを友次郎は一生涯変更する事なしに用いた。自分の師匠に対する敬意の為からで、大変奥床しい事と思ふ。(安原) 参考音源:三世竹本津太夫 義太夫名演集 DISC 3(日本コロンビア COCJ-36411)

<寿し屋>
 春は来ねども花咲かす、と「義経千本桜」の三段目の切、寿し屋の段は 華やかな三下り歌で始る。 以下参考音源:義太夫選集 豊竹山城少掾(ビクター伝統文化振興財団 VZCG 8214)
二段目は武庫山颪に雷鳴さへ伴った雨の海上で、知盛が入水するといふ陰惨な物語であるが、この三段目になると、口の椎の木の段から寿し屋の段は大和街道の市下宿の出来事であり、スッカリ鄙びた世界を取扱ってゐるのが面白い。
三位中将維盛は、安徳帝にしたがって西海へ落ち延びたが、その末路がハッキリしていないので、屋島から高野へ遁れて頭を剃ったとか、更に熊野へいって、やがて那智の海へ投身したなどといふ伝説を生むようになった。「千本櫻」では、寿し屋の亭主が熊野詣から助けて帰って、店の手伝ひをさせてゐる内に、娘のお里とよい仲になったといふことになって居る。
この浄るりは、近松の「天鼓」にヒントを得たといはれている。この「天鼓」といふ、千年の劫を経た狐の皮で張った鼓を守護する多くの狐の中に、弥左エ門、弥助といふ親子の狐があるが、作者、竹田出雲は弥左エ門を寿し屋の亭主とし、弥助を維盛が世を忍ぶ仮の名として居る。
「馬を牛へ乗りかへる」という譬があるが、これは狐を人間に乗りかへさせたものだ。院本作家といふものは実に洒落たことを考へる人種だ。
友次郎十歳の頃、京都には「井筒」といふ料亭の主人が芸人の面倒をよくみて居たが、友次郎もそこへ出入りして子供のやうに可愛がって貰って居た。名人といはれる清水町の師匠、二世團平がこの「井筒」の世話になって居た時、友次郎も「井筒」の関係から團平に近づいて、その身の廻りの世話をさせてもらってゐたことを本人から聞いたことがある。
團平は友次郎に向って
「オイ大公(友次郎の本名は山本大次郎といふ)早う大阪へおいでや」といはれる毎に、友次郎は、「お師匠はん、大阪テどんな所でンネ」と尋ねると、團平は
「おもろいところや、風呂屋が逆しまに建ってゐて、そこに金魚が浮いてゐる」と大次郎をからかったといふことである。
團平の弟子になる筈であったが、明治十九年、大阪へ下って旅装を解いたところは長尾太夫の家であった。それは最初の師匠の三二が、この長尾太夫の相三味線であったからである。それから彼は、五世豊沢広助の弟子となった。もし友次郎が團平について直接その薫陶をうけてゐたら、この天才の芸風はどう変化してゐただろう。三世鶴沢清六と共に近世三味線弾き中での出世頭であるといはれる彼だけにこれは興味深い課題であろう。
友次郎は清六と共に師匠のところへ稽古に行った時のことを回想して、広助師匠は朱に惚れたんだと話した、朱は鶴沢家の先祖である三世友次郎が編み出したもので、これによって三味線の譜を記録することが出来るといふ誠に重宝なものであるが、これに頼ってゐては生きた芸はできない、第一に間どりといふものが死ぬ。
広助の稽古は昨日と今日と違ってゐた。だからこの次の稽古は忘れてしまったとハッキリしたことをいってゐた
友次郎が好んで色紙などに書く文句に 「譜はみるべし、弾くべからず、学ばずして徒らに、譜をくってたつきとするは金魚に等しきものと存じ候」といふのがある。譜をクルといふことと麩を食ふといふことをひっかけて、麩の縁から金魚を引き出したものである。團平が大阪の風呂屋は逆しまに建ってゐて、金魚が浮いてゐるといったのは、この金魚のことを指してゐるのかどうか、それは友次郎には聞かなかった。(大西)

(_ヤイキョト\/しい其の面なんじゃい....お仕置にあはうよりはと)

子に甘いは親の常、極道息子のために、母親はまた三貫目の金をくすね取られるハメになる。次の「どうで死なねばなりますまい」から、「コリャ ヤイ」、「あ・・い\/」のところは権太の人形が、母親に取られた手拭の片端をもって仰向けに寝て、足をジタバタさせて甘へてみせるところである。
(覚悟を極めて居りまする ― 息を詰めてぞ入りにける。)
大和街道下市宿の寿し屋弥左エ門の総領息子、権太郎は「いがみ」といふ綽名をとるほどの無頼漢であるが、平家没落後、維盛が高野山に身をかくしてゐるといふ噂を頼りに、その妻若葉内侍らの一行から金をかたりとった。このいがみの権太が今日は父親が不在なのを知って母親に金をねだりに来て、マンマと五貫目をせしめたところへ父親の弥左エ門が狼狽てた様子で帰って来て表戸を叩く。権太は驚いて金を寿しの空桶の中にかくして納戸へ身を忍ばせる。
これから維盛、只今の名は弥助が出迎へるが「いひつけた寿しどもは、仕込んであるか寿し桶さげたり明けたりぐわったぐわった」といふところで、小脇に隠しもった首を忍ばせてゐる。だから寿し桶を列べた棚にはさい前権太が金をかくしたものと、この首を入れたものものと二つが混ざってゐる。
この浄るりは一段一時間四十分を要するといふ長いものであるが、権太の件はサラリと端場のやうに語ると聞いて居る。弥助実は維盛が弥左エ門の剣幕に驚いて母親を呼びに行かうとするので「行く弥助をば引きとどめ」となるが、この一句で舞台の気分が、キューッと引締らねばならない。舞台の人形は上手に維盛が片膝を立てかけた形で直り下手に弥左エ門が平服する。今まで寿し屋の店先であった舞台が平家の勢が盛んだった頃の御殿のやうに感じられる。山城少掾の「行く弥助をば引きとどめ」の一句はいつも見事な効果をみせている。
(_なぜ明けぬ... 落つる涙ぞいたはしき)

「娘お里は今宵待つ ―」から美しい三味線の音色と共に気分が一転する。この三味線を弾く友次郎の音色はボンヤリした中に特有の色気のあるのが特徴で、若い頃のよき競争相手であった三世鶴沢清六のキビ\/した中に聞かせた美しさとは対照的な面白さである。

「鶴沢友次郎」といふ家柄を斯道の名家だといふ。
義太夫節の三味線は貞享元年(一六八五年)初代竹本義太夫と共に竹本座を起した初代竹沢權右エ門を元祖として居るが、その弟子であった鶴沢三二が師匠の没後、竹本座の立三味線となって享保五年(一七二十年)に至って、初代鶴沢友次郎と名乗るようになった。これが鶴沢家の元祖である。大阪の出身でなかなかの名手であった。
その門人で通称児島屋といはれた人が、延享六年(一七四六年)頃から師匠へついて芝居に出勤して鶴沢文蔵と名乗り、明和年間には竹本座の総帥となり、「妹背山婦女庭訓」などの節付をしていろ\/の名曲を残したが、この人が寛政十二年に二世友次郎を襲名して居る。
「智仁勇をみすじに寄せて」と題して
三味線をむねにはひきて手にひくな ひけよひくなよ 心すなほに
といふ三味線の訓戒を残したのはこの人で、その訓戒書は代々友次郎名義を相続するものに伝へられ、最近では六世友次郎が保存してゐた筈である。
次に三世友次郎は先代の文蔵時代からの門人で非常な名手であったばかりでなく、既に十三歳の時、三味線の符章を発明して居る。
この符章は今日も行はれてゐる朱章のことで、これが三味線界に残した功績は実に大きいといはねばならない。はじめ鶴沢清二郎といって後に清七、文化八年(一八一一年)になって、三世を相続して居る。
四世は鶴沢清七の門人で亀助といった人の子供である。はじめ鶴沢豊吉と名乗り、文政年間には天晴れ名手と評判を得たが、後に伝吉を経て、四世友次郎となった。
五世は京都の三世野沢喜左エ門の門人である。後に四世友次郎の預り弟子となった人で、幼名の野沢小庄から、鶴沢庄次郎、更に三世伝吉となり、最後に五世鶴沢友次郎を襲名したのが慶應二年(一八六六年)である。
六世友次郎は、この五世の弟子の三二の弟子であるからその孫弟子にあたる。その天分によって異数の出世を遂げ、六世を継ぐことになったもので、友次郎の名が斯道の名人によって起されてから、実に二百三十年の長さに亘ってつづいてゐる。(大西)

(_娘お里は今宵待つ... 親御の気風残りける)

寿し屋の下男になりすました維盛も 今宵は昔のことを回想して美しいお里のしかけた恋のわなにも容易にかかってゆくことが出来ない。ここで旅のうら悲しさを聞くやうな文弥節で「神ならず仏ならねば ―」と家来の小金吾と別れ\/になった若葉内侍と六代君がこの家へ宿を求めてくる件になる。(大西)

友次郎に対して、そのよき競争者であった三世鶴沢清六は、共に六世豊沢広助の引立によって、近世三味線弾き中での出世頭といはれて居る。友次郎は二十九歳にして法善寺の師匠、即ち二世津太夫の相三味線になるといふ異数の抜擢をうけたが、清六の方は、二十四歳の時に、三段目語りとしての位置をすでに固めてゐたはら\/屋 初代呂太夫の三味線を弾いて居る。しかし、清六はさうした恵まれた境遇にも満足しなかったのであろう。明治三十一年、彼の三十一歳の時、文楽座を飛び出して、名人団平から離れたばかりの三世大隅太夫の相三味線となり、彦六系にあって非常な苦労を重ねた。ここに友次郎と清六との芸の質、芸の幅といったものに違ったものが出来たことは、想像に難くない。清六が文楽へ復帰してから、この二人の競争者の身分を立てるために 座主は番附の筆上と筆下の位置を一興行毎に取替へるといふやうな苦心をして居る。友次郎は清六をその本名で「田中」と呼び 清六も亦、友次郎を「山本」と互ひに呼びすてにしてゐた。そして友次郎は
「田中はよく弾きよるが よい音を出すのはわしの方や」と秘かに自負してゐたともいはれてゐる。
それでも清六の弾く三味線にはジ―ツと耳を傾けてゐたもので「冥途の飛脚」の淡路町を清六が弾いてゐた時、友次郎は床の後で耳を澄まして 朱をとってゐた。淡路町といへば、清六の十八番だったが、役をすました清六が床を下りようとして友次郎の姿を見かけ、
「オイ山本 なんしてんネ」
「チョッと聞かしてもろてたんや」
「ナアニ 大したことあれへんデ」
「ここんとこ チョッととれへんだ」
「ドドどこや 貸して見」
と清六は友次郎の朱を入れてゐた稽古本をとりあげて 如何にも御機嫌の態で 朱を入れてやったといふ話が伝って居る。これは互ひに虚々実々の態度がうかがへて面白い話だと思ふ。(大西)

(_先づ\/内へと密かに伴ひ ― から 都でお別れ申してより ―)

と一寸さはりめいた 悲しい物語のところ。
若葉の内侍が嫉妬の心を篭めて「ことに枕も二つあり」といふが、人形の舞台では、上手の屋台で寝てゐるお里の枕辺には同じ格好の女枕がもう一つおかれてゐる。この内侍の詞でお里があはてて隠すのが 人形だけに微笑しい空気をつくり出す。しかしこの次になると 思ひがけない恋の成行にお里はわっと泣き出して「_過ぎつる春の頃 色めづらしい草中へ」のくどきになる。
このお里の恋の悔恨にサツと暗いかげのさすやうな演出は古靱太夫(今日の山城少掾)の特徴であるが、これを助ける友次郎の三味線の音色の美しさもまた聞きどころである。
 友次郎はその晩年に於ても、若い頃は定めし美男子であっただろうと想像される面影を残して居たが、なか\/色の道―ラブ・アフェアも達者で 遊びのために芝居を休むといふ無鉄砲なこともあったようだ。その日はわざと女を連れて 切符を買ってお客席へ入り 自分の代り役のものが、床にあらはれると パチパチと手を叩くから堪らない。忽ち露見して、芝居出入りの差止めを喰ふやうなことさへあったといはれてゐる。しかしその恋の遊びが決してつまらぬ相手を選ぶのではなく、必ずどこそこの某と 名の知られた相手をつかむので有名だったと聞いて居る。だからある師匠は芸のあがらない弟子を意見して「おまへはしようむない女や女中ばかり追ひかけてゐるから ここの撥が出来んのや、友次郎のやうによい女と遊べ」といったといふことである。(大西)

 お里の嘆きを維盛も内侍ももてあまし気味のところへ 梶原平三が来るといふので、維盛らは弥左エ門の隠居所へのがれた後、いがみの権太が納戸から躍り出て、内通しようとする。弥左エ門は梶原のために「首討って渡すか 但し違背に及ぶか返答せい」と詰めよられる。この切迫詰ったところへ いがみの権太が「維盛夫婦俄鬼め迄 いがみの権太が生捕った」と現れる。維盛の首といふのは 前に弥左エ門が持ち帰って鮓桶にかくしておいた小金吾の首であり、内侍親子といふのは 権太の女房小仙と子供の善太で 口に猿轡をはめ後手にしばつて連れて来たのである。梶原は褒美に陣羽織を与へ 縄付きの二人を連れて帰る。(大西