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名人のおもかげ資料 五世竹本住太夫 p21〜p31

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 艶姿女舞衣 酒屋の段 五世竹本住太夫 二世豊澤龍助 (音源テープの試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)

     

放送記録         

75回 昭和25年8月29日 解説:九里(四郎)竹本住太夫の酒屋
89回 昭和25年10月13日 解説:安原(仙三)竹本住太夫の酒屋
374回 昭和27年5月13日 解説:高安(六郎)竹本住太夫の酒屋

          

五世竹本住太夫は、本名を吉野卯之助。弘化四年(一八四七年)大阪の新町の生れ。明治二年竹本越太夫の門に入りはじめ雛太夫といひ、後に四世竹本住太夫(太郎助橋さんといはれた盲の住太夫)に師事し、越太夫を継ぎ、師匠の住太夫の歿後、五世竹本弥太夫(堀江の大師匠)の預り弟子となり、明治三十年五月、五世竹本住太夫を襲名し、そのとき双蝶々の橋本を語った。明治四十二年九月二十二日、六十三才で歿。

住太夫
私が初めて大阪で御霊の文楽や近松座を聴いたのが、多分明治四十三年頃かと思ふので、其の頃はもう此住太夫は歿くなって居たわけである。だから何も知らない私が住太夫の話をするのもどうかと思ふが、このレコードを持って居る因縁で引受けたわけでございます。
この五世住太夫は有名なの住太夫の弟子で、文楽座の方には殆んど関係がなく、明治十六年につぶれた日本橋の沢の席 それが十七年に彦六座となり、二十七年に稲荷座となった。つまり彦六座系の太夫であった。その時見た明治二十年頃の彦六座の引き札を見ると なんと木戸が一銭五厘 桟敷が九銭五厘。人形浄瑠璃の苦境時代とは云ひ乍ら、今から思へば嘘みたいな話である。
この住太夫は仲々の酒豪だったさうだが、何しろ苦境時代の事とて生活は無論みじめなものであった。それでもその間にボチボチ貯めたが、虎屋銀行が潰れ、折角の虎の子も取られて了ったため、それから少しポウーとなり 暫くしてから歿くなったさうである。
ここで私個人の感想を話すと この「酒屋」なども今の義太夫節から見ると少し足が長いやうに感じられる。が、これが所謂 昔風の義太夫とでも云ふのか よく聴いて居ると、如何にも義太夫らしい義太夫といふ様に尊く感じられる。
その頃の大阪の町の気分、夕闇の中に白い蔵が並んで川筋にチラ\/灯が映り、町々も静かに時々行き交ふ下駄の音がするばかり 今締めたばかりの格子先やのれんの間から行燈の灯がうすく洩れ 今と比べれば薄暗く淋しく落着いた、たそがれ時の大阪の町の感じが 昔の浮世絵を見て居るのと同じ様に、この酒屋の枕からも感じられる。それから言葉のやりとりにしても、現代の智的な解釈の浄瑠璃よりも 何も難しく考へずに サラサラと工(たく)まずに語って行く。その中に何かしらその人になり切った つまりこしらへたり芝居をしない所がなんとも云へず有難く感じられる。
どうも義太夫には地合と言葉 これは声柄にもよりませうが どっちかが得意といふやうに大体わけられるやうに思はれるが。前にこの時間にあった春子太夫などは明かに地合の人 この住太夫はどっちかと云へば言葉語りの方だと思ふ。しかし、どんなものでも語られたさうで「先代萩の御殿」や「新口村」又この「酒屋」などはよくやられたさうである。
「太夫はナ はたから演れといふてくれはった時には どんなものでもやらして貰うたらエーネ」
その頃極く若かった山城さんに笑って云はれた事もあったさうだ。語り物も 大体 先々代の法善寺の津太夫と同じで「橋本」とか「沼津」などが最も得意だったと思はれる。(九里)

酒屋
このレコードでは 三味線に豊沢龍助である。この人は大変音色の美しい方だったさうで それ以外の事はつい聞き洩らした。レコードは明治三十八年十一月吹込だときいてゐる。この盤を見てゐると 殆んどかけてないやうに美麗だが、何しろ年月が経って 幾分か変質したといふこともあらうし、又その当時の吹込みの 設備や技術も、今日とは違って 余程不完全だったと見え かなり雑音も多く 音も小さく それに又どういふ加減か 三味線なんかも放した音や 一や二の音は 大変大きく響くが 三の糸の押へた音などは 殆んど聞えない程小さい場合もあるし 太夫の声も、二や一の音は立派に聞えるが 高い音になると誠に聞き取りにくいので 余程想像してお聞きを願ひたい。しかしまあ兎に角、 蝋管の時代から平円盤となった最初の頃の 珍らしいレコードだといふことを第一の前提としてお聴き願ひたい。(九里)

この五世住太夫にしましても 堀江の大師匠といはれた 五世竹本弥太夫にしても、三代目長門太夫 即近世の名人 河堀口の長門の高弟だから五代目がそれらの各人から影響をうけたのはいふまでもない。

盲の四世住太夫
四代目住太夫は 紀州田辺の人で生来の盲目であったが 幼い頃大阪へ来て三味線を習い後にこの道に入り田喜太夫と名乗ったのが 師匠の内匠太夫歿後三代目長門太夫の門下となり 四代目住太夫を襲ぐことになった。
稲荷の彦六座が出来たのが明治十七年一月で四世竹本重太夫、五世豊沢廣助が紋下だが、同年三月に住太夫が入って重太夫と隔月交代で紋下になった。
この四代目は美しい声で盲人だけに記憶がよく門人に本を三度位読ませると もうスッカリ覚え込んでしまうといふ程で また中々研究心がつよく住吉へお詣りするのに 当時まだ汽車も電車も無かったから 人力車で行ったものだが、その車夫が汗をあびてヒイ\/苦しさうにしてゐる息づかひを聞いて 伊賀越の平作の足どりを工夫したさうで この人の沼津はそんな関係もあってか殊によかった。その中で「胸に一物荷物は先へ」の處で「胸に一物」で一寸間をとり「荷物は先へ」と軽くこなす處が非常に鮮かで いつもここで見物がうなったといふ。五代目はさすがにそれ程ではなかったけれど、それでも多少はウケて今日の人達では一寸真似が出来ぬといはれて居る。重の井子別れも四代目の当り芸であって五代目はそれに及ばぬけれど其妙所は傳えて居り、いつか名人の組太夫が沓掛村を語った後へ出て立派に四段目を語り終らせた程の貫碌は具えてゐた。
それから新吉原の揚屋だが、名人団平の批評によると 越路 即摂津大掾の惣六は上品過ぎとても揚屋の亭主でなく、たしかに二本差してゐる様だし、四世住太夫のは巧いことは巧いが柄が落ちて小茶屋 店つき女郎のゐる小茶屋の主の様に聞えるから、この両人のをつき混ぜた中間が語れたらほんとうの惣六になるとの事である。
それでこうした理由から先代萩の御殿などは越路に及ばなかったが、三勝の酒屋はたしかに住太夫の十八番ものであった。(高安)

五世住太夫
明治三十年一月に稲荷で越太夫から五世住太夫を襲名した時の出し物は双蝶々の橋本でこれは傑作だったが よく一緒に旅興行をして歩いた貴田 三代目越路もこの甚兵衛の良かったことを激賞してゐた。
とにかく調子が上手であり あまり技巧を用ひずに自然に情愛を語りわけるといふ風で 生来の盲人の真似をすると非難する向きもあったが、皮肉家には受けずとも現在居られる其道の人人からもかなり賞められてゐて、その中の一人の話に 忠臣蔵四段目判官腹切など中々良く 殊に薬師寺の「館の四方をねめ廻し」の處など大秀逸だったといふことだ。それから七段目で由良之助を語り、貴田の越路が平右ェ門だったが、ヒョイと太鼓持か何かに出て軽い芸をやってアットいはせたといふやうな洒落気もあった。尤もこれは無論研究のことである。
巡業では面白い話がある。貴田の越路が九州を巡業するのに自分一人では少々心細いので二枚目を誰にしようかと師匠の摂津大掾に相談した處、住ならシッカリしてゐて適任であるが格が上故一寸には承知すまい、但最近大分懐工合が良くないらしいから多分奮発したら話が出来ぬこともなからうといはれて 住さんなら有難いから自分の給金から出しても良いといふわけで早速万事好都合に運んで巡業に出かけたところ、眞の越路よりスケの住の方が好評で大当りといふ成績、巡り廻っておしまひに名古屋の御園座へ出て 貴田は合邦が一番ウケ 住の方はそれ以上に梅田の聚楽町が大々的に当った。
それで約束の日数を打納めてもお客がもう一日だけ日延して、梅田を出せといふて承知しない。それで仕打がその旨を住太夫へ申入れると、演れなら演るが給金を倍にせいと高飛車に云出すので今更引込もつかず 澁々承知して蓋をあけるとこれ亦予想以上の大入で万事が極めて順調に終ったが、さて住太夫はその日、給金を受取るとそのまま全部を一座の下廻りへバラまいてしまったので、一同が又スッカリ敬服したといふ話だ。(高安)