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名人のおもかげ資料 明治から大正への義太夫節 p15〜19

使われた音源 (管理人加筆分)
米コロンビア 日吉丸稚桜 小牧山城中 竹本七五三太夫 四世鶴澤勇造   部分音源へ 
米コロンビア 菅原伝授手習鑑 寺子屋 三世竹本南部太夫 四世鶴澤鶴太郎(音源テープの試聴は、国立文楽劇場に問い合わせ)
ニッポノホン 本朝廿四孝 十種香 七世豊竹時太夫 三世鶴沢燕四 音源

142回 昭和26年1月15日 解説:安原(仙三)明治末期に活躍した義太夫節の人々

七五三太夫
 
初代竹本七五三太夫は本名瀬鴻幸吉と云い、文久四年の大阪の生れ 明治十年越路太夫(後の摂津大掾)へ入門。明治四十四年、四十八才で若死。七五三太夫は大変声が大きかったと云う事で、此の大きな音声が此の人の身上であった様だ。明治十年 当時の越路太夫後の摂津大掾の門に入ったが、一時大掾の居た文楽座とは敵側の堀江座の方へ出座した。その後文楽座へ帰ったが、割合に恵まれずどちらかと云えば逆境にあった。のちに明治四十四年頃後輩の三世津太夫が、それと同待遇を受ける様になって不満がつのり、或は気が変になったとかで二階から落ちて、それが原因でなくなったとも伝えられている。(安原)

日吉丸
「日吉丸」は明治三十九年頃の録音で、三味線は四世鶴澤勇造。(後の五世鶴澤文蔵)稚気満々というか、或る意味に於ては不器用というか、今日の浄瑠璃とは凡そかけ離れたものであるが、義太夫節も音曲だから、貶すことは出来ないと思う。むしろこういう風の行き方もあって好いのではないかと思う。(安原)

三世南部
 三世竹本南部太夫は本名前田卯之助と云い、慶応元年卯ノ年の生れ、明治二十三年に二世竹本長尾太夫に入門、二世竹本鶴太夫となったのち、明治二十七年摂津大掾へ入門、三十二年三世竹本南部太夫を襲名、大正十一年四月五十八才で歿。(安原)

寺子屋
 此の南部太夫の「寺子屋」のレコードは三種類ある。第一は今お聞きになる三味線鶴太郎で入れた米国コロンビア盤十一面 第二は三味線猿糸(後の六世友次郎)で入れた米国コロンビア盤十面、第三は同じく猿糸で入れたワシ印レコード八面の此の三種である。此の内ワシ印のレコードが一番よく入っていて、これが市中に一番沢山出ているが、米国コロンビア盤の二種は大変珍しいものである。殊に今聞いていただく手習子の出て来るところ「表はそれ共白髪の親父」からで、大変珍らしいレコードである。録音は明治三十八年と思うから今日より四十数年も昔のもので、例に依り雑音が大変多いのが残念だ。このコロンビア盤は三味線清八のものも、友次郎のものも共に十二寸である。

(表はそれとも白髪の親父...  ...子計り寄って立帰る迄)

 大掾の語り方と大変よく似ている様で、此のレコードから大掾の語り方が想像されると思う。「堀川」も大変よく大掾の語り口に似ているそうだ。此の「堀川」も米国コロンビア盤の十二寸盤で、同じく明治三十八年頃の吹込。これも大変珍らしいレコードである。三味線は同じく鶴太郎(後の二世鶴澤清八)。
聞いていて大変面白い語り方で一寸調子を外す処迄大掾のくせを真似をしているではないか。(安原)

時太夫
 七世豊竹時太夫、本名松本政次郎 文久二年伊丹の生れ、明治十年鶴澤寛治に入門寛八と云った。のち明治二十二年二世竹本長尾太夫へ入門して高尾太夫となり、明治二十七年更に摂津大掾へ入門、三十六年四月七世時太夫を襲名。

十種香
 此の時太夫も摂津大掾の門弟で、明治末に文楽座の中堅として活躍した人である。始め二世長尾太夫に入門して高尾太夫と云っていたが、明治二十六年長尾太夫の死去により、摂津大掾へ入門した。此の太夫も大掾張りの語り口で、今日は大掾の得意とした「十種香」を此の時太夫のレコードで比較されたい。違う処もあるが、大体大掾の型に依っている様である。此の太夫もなか\/の美声で、高い音はいくらでも出ている。三味線は三世鶴沢燕四(後の鶴澤才冶)で、後には駒太夫を弾いた。此の録音は大正五、六年頃ではないかと想像している。(安原)