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名人のおもかげ 六世竹本彌太夫 

使われた音源 (管理人加筆分)
ニットー   仮名手本忠臣蔵 茶屋場の段 六世竹本彌太夫その他 四世鶴沢清六 義太夫SPレコード集成ニットー編3(国立文楽劇場 NBTC-10)
ニッポノホン 義士銘々伝 赤垣源蔵出立の段 六世竹本彌太夫 六世豊沢源吉
ニッポノホン 花雲佐倉曙 儀作内の段 六世竹本彌太夫 六世豊沢源吉
オリエント  加賀見山旧錦絵 又助住家の段 六世竹本彌太夫 八世野沢吉彌 音源
ニッポノホン 仮名手本忠臣蔵 判官切腹の段 六世竹本彌太夫 六世豊沢源吉

     

放送記録         

147回 昭和26年1月22日 解説:大西 六世彌太夫の「赤垣」
211回 昭和26年6月29日 解説:木村 六世彌太夫の「茶屋場」
326回 昭和27年2月14日 解説:大西 六世彌太夫の「加賀見山又助住家」
358回 昭和27年4月9日 解説:大西 六世彌太夫の「佐倉曙」と「忠臣蔵」
386回 昭和27年6月6日 解説:大西 六世彌太夫の「赤垣源蔵」
483回 昭和28年5月30日 解説:木村 六世彌太夫の「赤垣出立」

     

 六世竹本彌太夫は、慶應二年(一八六六年)大阪南堀江の粉屋小林利三郎の三男として生れたが、長兄が浄るり好きで、染義の名で素人義太夫であったので、幼い頃から浄るりの手解きうけ後に、豊沢小團二について本式の稽古を始めた。明治十七年に五世竹本彌太夫に入門、彌生太夫と名乗ったが、間もなく東京へ出て五世綾瀬太夫(只今の相生太夫の祖父)の許で修業をつみ、帰阪後は再び彌太夫の門に入って、師匠の前名、長子太夫の三世を継ぎ、師匠の七回忌に相当する大正二年三月 六世彌太夫を襲名。大正期の名人肌の芸格をもち、世話物については当代随一と称せられて居た。大正十三年六月、五十九才で歿。竹本彌太夫が五世彌太夫の弟子となり、彌生太夫といふ名で文楽座へ入ったのが、彼の十九才の時のことであった。当時は芸道修業の順序のやかましい時代であったから、勿論はじめは大序語りである。
大序といへば、床本にして一行か二行、それも、それだけ語してもらへば先づよい方だといふことであったから、十九才にもなってゐる彼がこんなことでは一人前の太夫になる迄、なかなか容易なことではないといふので、東京へ出て修業することになったといふ。当時はこのやうに他人の間でもまれて一人立ちになることが多かったのである。
東京では竹本綾瀬太夫のところへ行くことになった。綾瀬太夫は非常な美声でならした人で、今日の文楽座の相生太夫の祖父にあたる人である。綾瀬太夫のところへは師匠から依頼状が差出されてゐた。彌生太夫の彌太夫は小團二の弟子の小次郎といふ三味線弾きと一緒に行くことになり、二人は見台と三味線とそれぞれ背負って東海道をテク\/歩いてゆくことになった。乗物に乗って楽をしては薬にならないといふのである。二人は河堀口まで家族に見送られて出発した。
荷物の中には鰹節が三本入れてある。これさへあれば、途中どんなことがあっても、飢死することはないといふのである。この東京行は堀江の薬種問屋であった「平庄」といふ人の後援であったから、泊り\/の町にはこの人から前以て依頼状が行って居り、二人の為にお座敷が準備されて居る。それによって頂く御祝儀によって 途中さほど困ることもなく、東京へ着くのに四十日もかかったといふことである。
綾瀬太夫の許では小綾太夫と名乗って、当時売出し中の師匠について毎晩二つ三つの寄席をつとめながら、大いに勉強したのである。この東京行中も「平庄」からは二人の為に毎月、米代として一円五十銭が送られ、「お前ら、飯代つきや、なんにも気兼ねすることあらへんネぞ」と、きまって手紙の終りに書いてあったといふことである。
二十二才の時、徴兵検査のため帰阪したのを機会に再び彌太夫の弟子となって、師匠の前名である長子太夫の三世を継いだが、紋下問題で五世彌太夫が攝津大掾ともめたので、文楽を脱退してやがて師匠と共にいなり彦六座へ入った。
彦六座系の芸人は、浄るりはどこか一か所でもお客の胸倉をとってゆさぶるところがなければならぬ。あとはサラリと走ってゐても構はないのだといふ。傳統に誇る文楽に対して新興の彦六はかうして、お客にアピールするものをもって対抗して行ったのであらう。彌太夫はこうして理想をかかげた人々の中で、一人前の太夫となったのであるから、彼の芸には写実の中に、聞くものの胸に大きな感動を与えねばおかないなにものかがあった。
彦六座から堀江座へかけての彌太夫の生活も決して楽ではなかったそうである。このあひだにも彼の贔屓である「平庄」の庇護があって、月末になると彌太夫は「平庄」へお金を借りに行く。「平庄」は、堀江にあった薬種屋で、多くの家作をもってゐたものであるから、その番頭が家賃を集めて来た時分を見計っては参上するのであるが、「平庄」の内儀がいつも中に立ってあひだを取持ちをしてくれる。
「亀やん来てはんネン」(彌太夫の本名は竹内亀松)「またかいなァ」「今日はお茶屋の支払ひやとウ、南の払ひやデ足場が遠いから、今から出しといたげなはれ」といった塩梅で― その頃のことだから、祖母を加へて親子四人の家族が暮すには、十五円から二十円ぐらひあればよかったといふことである。「平庄」は金を貸すと、女中に、「亀やんの手紙書いといてや」といって控えをとるが、これが銀行の通ひといったもので、彌太夫の方では、芝居の給金が入ると「平庄」へ届ける。月末が来るとまた無心にゆくといった順序であった。
この彌太夫が、師匠の歿後、六世彌太夫を襲名した時には、もうこの「平庄」も亡くなってゐたが、右のお内儀の手から、借金の書付は帳消しやと チャンと戻されて来たといふことである。名人彌太夫の芸修行の蔭にかうした力強い後援があったといふのである。
彌太夫の奥様おきみさんは今も七十二才の長寿で健在で居られるが、私は最近、奥様に逢って以上のやうなお話を聞いた。彼の東京修業は、それが彌太夫自身の発意であったのか、それとも師匠をはじめ周囲の人々の勧めであったのか判らないが、そこにはなんとなく利かぬ気の彌太夫の姿が浮んで来る。あるいは四ヶ年といふ東京修業中の影響かも知れない。大坂の四遊郭荒しといはれた雑喉場(ざこば)大盡、酒井猪太郎といふ人が彌太夫の贔屓であった。
芝居中はきまって十時には家に帰ってゐたといふが、これも上機嫌の酒井大盡が夜中に訪れて来た時、彌太夫のお内儀が、旦那はんのお越しやと起さうとするが、本人は狸寝入りをして起きようとはしません、小さい家であったから、次の間で彌太夫が寝てゐる姿がすっかり見えてゐた。お内儀はなんとも申訳なくて「エライ、失礼しまンナ」と詫びると、寝てゐた筈の彌太夫が、「ナニ失礼なことがあるもンか、よさり一時、二時になって、他(ひと)の家を騒がす奴の方がよっぽど、失礼や」と怒鳴ったことがある。これも彌太夫の負けぬ気性を物語ってゐる。(大西)

彌太夫の師匠であった五世彌太夫は堀江の大師匠とか、木谷の彌太夫とか呼ばれた人で、近世の名人である竹本長門太夫について きびしい修業をした太夫である。
この木谷の彌太夫は、子供太夫の時代には相当の聲量もあり、早くから大物をこなしてゐたのであるが、年頃になると、声変りがして思ふ様に語れなくなったので、太夫をやめてしまはうと決心する程、悲観のどん底に遣られたが、悪声の名人といはれた内匠太夫から「悪声には悪声の味があるもの、悪声で、どんな巧節を聞かさうとしたかてあかん。それより詞に情を活かすことに工夫しなはれ」と訓されて、飜然悟るところがあり、いよ\/詞と情とに研究を重ねた結果、明治初期の文楽座はなやかなりし時代には、後の攝津大掾となった二世越路太夫の美声にまかせた濃艶華麗な芸風に対峙して、小音、且つ悪声でありながら、性格の描写と人情の機微を語る古淡な芸風を認められてゐたのである。この門人である六世彌太夫は、まだ長子太夫といってゐた頃は、稽古嫌ひで、師匠の家へ 仲々顔を出さないのを、無理やりに呼び出しては稽古をつけてやったもので、長子が酒のみで、その他にもいろ\/失策があり、二十幾度も勘当をされたのであるが、又してもこれを許してやっては、稽古をつけるといふ塩梅で 余程長子が可愛ゆかったのであろう。その誠意と熱のこもった稽古ぶりには、弟子よりも師匠の方が一生懸命やとかげ口を叩くものがあったとさへいはれて居る。長子の彌太夫も非力であって、悪声の方であったが、師匠の熱心な指導によって、最も多く師匠の芸風を傳へた太夫である。「伊賀越」の沼津、「八百屋献立」「双蝶々」の引窓、「帯屋」「妹背門松」の飯椀、「ひらかな」の逆櫓、「忠臣蔵」四段目、「岩井風呂」それから「赤垣出立」それから文楽に於る最後の舞台となった「白石」の逆井村などは殆んど師匠の得意としたものである。先代の大隅太夫は「ホントの浄瑠璃の語れるのは長子だけや」と云ったといはれてゐるし、三世越路太夫は世話物は堀江の亀には叶はぬといってゐたといふことである。長子の彌太夫は、本名を竹内亀松といって、堀江に生れて堀江に住んで居たから、本人は一かどの顔役気どりで わしは堀江の亀やといってゐた。彦六系の芸風として、本来の浄瑠璃の格にピタリと適ひながら老巧な語り口に写実の手法が蒸溜されてゐたが、さうかと云って 彌太夫の本領が世話ものに限られてゐたのではない。亡くなった年の大正十二年には、「八陣」の御座船の政清を語って居たが、枯れすぎて、往々にして、熱を失ってゐるといふ一部の批評があったにも拘らず、この大時代の政清を語るのに、充分の熱を内に蔵して、その上に当て気味がなく、最後の大笑ひは 場内を壓してゐたのである。
彌太夫が大酒のみであったことは、前にも少し話したが、役のすまない間は、一滴も酒を口にしないが、役が終ったとなると、それが、どんな早い時間であっても 家に帰ると、台所の長火鉢の前に ドーンと坐る。彼の坐った後には チャーンと四斗樽が据ゑてあり、本人は自ら 身体をひねって 呑口に酒を移して、チロリに入れて 長火鉢の銅壺で燗をして、チビリ\/きこし召したといはれてゐる。酔ひがだんだん廻って来ると、これがいつものおきまりで、前にひかへた子供の前に手を出して、
“日本でうまい浄瑠璃語りの第一は誰やといふ、浄瑠璃のうまい第一は”
“うまい浄瑠璃語りの第一は越路やで”
と前にふった右手の親指を折ってみせる。
“それから 第二は誰やと思ふ ― 越路の次にうまい浄瑠璃語りは ― お前ら云ってみい”
いつものことであるから どの弟子もなんとも答へない。
“日本でうまい浄瑠璃語りの第二は ― コノわしやデ ― ”
と右の人差指を我が鼻へもって行くといふ。こんな上機嫌であった。
このやうにして三四本の酒を自ら樽から移して、燗をして呑むのが一日中かかったといふことである。このために身体をこはすことがよくあったので、日本で第一の浄瑠璃語りと褒められた越路太夫は「堀江の亀は毎日酒を呑んでのんか、あんまり呑んで身体を悪うせんようといっといてヤ」と弟子に言傳てをしてよこすと、彌太夫は「越路がそんなにわしのことを心配してくれてるか」と、目に涙を浮べてゐたといふことである。(大西) 

(攝津と五世彌太夫)
明治の義太夫界に その名を謳われた太夫に 竹本摂津大掾と五世竹本彌太夫がある。攝津大掾は、文楽座の紋下で 後にも先にも無いといはれた美声の持主 天下の人気を一身に 背負うて居た。小松宮様から掾位を頂いた許りでなく 貴人名家にもひいきが多く、晩年は須磨の別荘で 結構な余生を送ったといふ人である。
それに対し五世竹本彌太夫は、稲荷座系を代表する人であるが、非常な難声で、其上、声が小さかったのです。しかし芸風は極めて男性的で、人情語りの名人と言はれて居た。質素な木綿もので一生を通し、晝夜の別なく素人玄人に熱心に稽古をつけ、後進の善導に力を盡した。木谷の師匠或は堀江の大師匠と貴ばれて居た。三味線の名人團平は、越路(大掾の前名であります)越路には 言うに言えぬ艶があるが、位がない、彌太夫には艶は無いが、侵すべからざる権威がある。そしてどっちもが相手の上には成れぬと評した。この五代目彌太夫は、素人よりも玄人や通人に高く買われたのであるが、十八番が言葉ものであるのと、比較的早く舞台を離れたので、レコードには何一つ残して居らない。誠に残念な事である。(木村)

(六世彌太夫)
五世彌太夫の芸風を最もよく傳へたのは、さの太夫の越路太夫、先代住太夫、新靱、春子太夫があるが、今日は名跡の相続人たる六世彌太夫のレコードを通じ、この名人の風貌に接して頂きたいと思ふ。六世彌太夫は先代同様、大阪堀江の生れである。家は手拭の染屋であった。兄が染義といふ俳名で素人浄瑠璃の語り手であったので、子供の内から、稽古をして貰ひ、染子といふ名で会にでたりして居たが、遂に兄の口ききで五代目に弟子入りをして彌生太夫と名乗るに至った。その時分は、仲々の美声であったので、師匠は綾瀬太夫で修業をさせた方がよかろうと、当時東京で売出しの綾瀬の処へやった。師匠の五代目は、一滴も行けぬといふ下戸であったのに、六代目は又大の酒好きです。東京へ修業に行っている間にすっかり酒の方を先に卒業した。しかもその為に生来の美声を潰してしまって師匠同様の難声になってしまったのは、何といふ巡り合はせであろう。かくて東京での修業は、ただの二年で終った。帰ってから師匠の前名長子太夫を名乗るに至ったのである。名人彌太夫から、お半長右ェ門帯屋の段を習った。轉た寝をしてゐる長右ェ門をお半が「長右ェ門さん\/」と呼び起す処がある。彌太夫は此の場合「おぢさん おぢさん」と申してゐたが、長子が何度となく「おぢさん\/」を繰り返すのであるが、どうしても師匠のお気に入らない。至頭「お半は幽霊やないぞ」とどなりつけられた。あせればあせる程幽霊になる「声色を止めて浄瑠璃を語りなはれ」と叱られて 始めて大悟徹底した。声の悪い大人に、小娘の声の出る気づかいは無い、悪い声でも小娘の気分が出ればよいのだといふ事を知ったのである。

(茶屋場)
これから聞いて頂きます茶屋場の由良之助によって、声色でない浄瑠璃の言葉を味はって下さるよう お願ひする。由良之助は 祇園の一力で数日来飲みつづけて居る。あまりの耽溺ぶりに 同志が面縛に来る。そこへ 旅から帰った足軽の寺岡平右ェ門に、来合わせ敵情視察の模様を報告しようとすると、その言葉を打ち消すやうに、かさにかかつて言ふ。
( ああこれ\/其許は足軽であうて... ...弾きかけた処は堪らぬです)
只今の処で「太々神楽」といふいひ廻しは歌舞伎で上演された時の 澤村宗十郎の口癖を取ったものだと言はれて居る。平右ェ門の報告などは耳にも入れず、冗談にまぎらし、そしてその揚句の果 其場へ酔ひ潰れて寝てしまふ。いきり立つ三人侍を宥めて平右ェ門が一同へつれ込んだ後へ、倅の力彌が 急用の手紙を密かに持って出て来る。そして父の寝姿を見て、その耳へ刀の鍔音を聞かせる。由良之助は 直に起き上ったが、他人に気取られぬよう 態と大声で女中たちを呼ぶ。
( 来いよ\/ お竹お梅はゐぬか... ...山科さして引きかえす)
以上の由良之助の言葉は 全く自然であり、所謂せりふでは絶対ない。しかも自然の内に備った貫録は、実に大したものでなる。舞台では 上手の二階座敷の障子が開き、なまめかしいお軽の姿が現はれる。おかるの役は故人の竹本錣太夫が勤めて居る。
( 折に二階へ... ...どりや金渡してこう)
この辺 全く芝居情緒である。この七ツ目といふ浄瑠璃は 一度芝居へはいり、更に浄瑠璃へ帰って来たものであり、段切りも、九太夫の死骸をかついだ平右ェ門が「いかが計いましょう」と由良之助に聞いたに対し「鴨川で水ぞうすいを喰はせい ハハア してこいな」チョンチョン\/\/と終る変った型を残して居るのである。六世彌太夫の十八番ものといふのは 即ち師匠の名人彌太夫の十八番ものであり、「沼津」「八百屋」「引窓」「帯屋」「めし椀」「忠四」「岩井風呂」「逆井村」「赤垣」などである。(木村)

(茶屋場)
力彌が御台の文を届けに来たところから始めよう。
( 月の入る山科よりは... ...閧の声と聞えしは )
今まで酒に酔ひしれてゐたと見えた由良之助が、力彌の鯉口の音に本心に立返って「力彌か」といった一言は自ら由良之助になって居る。彌太夫ほどの浄瑠璃であると、これを受けとめる力彌は余程の太夫でない限りふるえあがるのではないかと思ふ。それはこれから現はれる九太夫を語る太夫についてもいへることで、昔の家老同志 仇の犬となって 大星の眞意をさぐろうとする九太夫と、それをはぐらかしてゆく由良之助、こんなところにも この「茶湯場」を聞く楽しみがある。このレコードで力彌を語るのはつばめ太夫(綱太夫) 九太夫は静太夫(大隅太夫)大正十二年ごろといふから 今からざっと三十年程前の吹込みである。
( 仇高の師直... ...歌へ \/ )(大西)

(赤垣出立)
「赤垣出立」は慶應年間に 倉田千両とかいふ人が作った作で長尾太夫が初演したものといはれて居るが確かなことは判らない。浄瑠璃としてはつまらぬ作であるが、以前はよく流行つた浄瑠璃で、四ツ橋文楽座が出来てから、先代津太夫が一度語ったことがある。平凡な作を大酒呑みの彌太夫の芸がどこまで面白く聞かせるかをお聞きとり願いたい。三味線は豊沢源吾で、後に仙左ェ門から三世團平となった人である。(六世源吉の誤り?)
( 降り埋む雪の野山と人心... ...酒よりのちの心なりけり)
彌太夫の酒好きは有名なものである。家にゐる時は台場のついた長火鉢の前にあぐらをかいて、後にデ−ンと据へた二斗樽の呑み口を自ら切って燗をしては いかにも御機嫌の態でチビリチビリきこしめすのが常であったが、かうして一日、まず 七合程度の酒をのんでゐたと聞いて居る。師匠の五世は酒を嗜まなかったさいであるが、四世まで遡るとこれはま大酒もにだったといふことであるから、彌太夫は丁目丁目が酒だといふことになる。この次に「此の酔ひざめの水ならねど... 」といふのは彌太夫自身の実感でもあろうか。
( この酔ひざめの水ならねど... ...吉良上野が為にやみ\/と御切腹)
彌太夫の浄瑠璃を聞いてゐると、なんと素っ気ない、気のぬけたビールのやうに感じることもあるが、語るところは充分に語って居る。一体に彦六系の芸人は、浄瑠璃にはどこか一か所でもお客の胸倉をとって揺さぶるところがなければならない、あとはサラリと走っても構はないといふのである。彌太夫は先代に師事すること三十余年、そのイキ、その妙をのみ込んで、その技の全部をうけついだ人といはれて居り、曲節と音声に於ては 当時三世越路太夫には一歩を譲って居たが、一点の臭さもなく、滋味と足取りの巧妙な点では、天下無敵といはれたものである。
( 一家中はみな浪人して散り\/ ...ドリヤお暇申さうかと鎗巻き落し立上る)
ここで母がよろばひ出て、自害する。源蔵の敵討参加の覚悟を見抜いて励ます件があって、若党 曽平太が吉良方の間者で注進と駈け出すのを源蔵が門出の血祭に鎗で突殺す。折から「今打つ時計は亥の上刻、出立の用意\/」となって、源蔵が勇しく出立する段切になる。
( アレ\/ 今打つ時計は亥の上刻... ...雪を蹴立て駈け行く)(大西)

(佐倉曙)
下總国佐倉の藩主堀田正盛が新しい税の取立を強行したことと、折からの饑饉のために農家が非常に困窮に陥った時、義民佐倉宗吾といふものが現はれたといふ事件を採上げたのが浄瑠璃の「花雲佐倉曙」である。
これからお送りする儀作内の段はこの「花雲佐倉曙」の七段目宗五郎内の段を増補したものである。六世彌太夫は肚の薄い太夫のやうにいはれて居るが、冴えた二の音の持ち主であったことが、この人の浄瑠璃をどれだけ立派なものにしてゐたか知れない。「冬の日の早や暮れけれど雪明り...」といふマクラなどにその彌太夫の特徴が充分汲みとれると思ふ。
( 冬の日の早や暮れけれど... ...儀作は目さまし起上り )
このレコードは只今のマクラの「我家ばかりの気配りなり」の後に一部省略されたところがある。印幡村の喜右ェ門といふこの辺りの嫌はれ者が悪代官の手先となって、宗五郎の家の様子を探りに来る。宗五郎は七人の名主達と一緒に鎌倉へ居る藩主のところへ掛合ひに行ってゐて、その両者のあひだが相当尖鋭化してゐる。こんな空気の中へ宗五郎が夜陰コッソリと戻って来る。
( 誰れぢや\/ ...おさんも涙の顔を上げ)
この儀作はもと 代官の家柄であったが、娘の婿養子にした宗五郎によって家の再興を念じてゐたものだけに、どこか骨っぽい性格が見える。この儀作を彌太夫はその特徴である写実的な技巧で生き\/と語って居る。これから思ひがけない夫の愛想づかしを聞いたおさんのクドキになる。
( コレ申し宗五郎殿... ...かっぱと伏して泣入るは理せて哀れなり)
その為 儀作は腹を切って二百二十九ヶ村の為に 仂くやうに諫めるところになる。実は宗五郎は藩主との掛合ひに見切りをつけて 将軍家へ直訴することを決心してゐるので、親だや女房子供にそのその罪の及ぶのを恐れて 親子の縁を切りに帰ったことを明す。さうして心を後へ残し乍ら、鎌倉へ出立するのがこの浄瑠璃の段切れになって居る。この三味線は、彌太夫の甥に当る豊沢源吉。(大西)

(又助住家)
「又助住家の段」は 一般には「旧錦絵」の一部に組入れられて居るが、実は「加賀見山廓写本」の七段目であり、もと奈河亀輔の作で 同名の歌舞伎の脚本を、中村魚眼が浄瑠璃に書直したものである。谷沢求女の家来の鳥居又助は主人の帰参のために女房を遊女に売って金を整へるが、今日しも家老安田庄司が訪ねて来たのは、自分が筑後川で悪人蟹江一角を討った功によって 迎へに見えたものだと悦び勇む。しかし、それは望月源蔵に欺かれて、実は安田家の大殿を殺害したものであることが判る。これを知った又助の懊愕からレコードは始まる。三味線は八世野沢吉彌。
( 聞く又助は五臓六腑... ...細首はっしと打落せば)
又助のこの気の狂ったやうな振舞ひに、求女は堪りかねて槍で突きかかるが、実は求女の手にかかって、自分の誤った行動から危く難のかからうとする主人を救はうとする又助苦肉の策である。家老はすぐにそれを見抜くところで、又助の大殿殺害の物語、この浄瑠璃の聞きどころになる。
( 求女はなほも詰寄って... ...川へざぶんと飛込んで、忍ぶ)
只今の「今や来ると待つ折から」につづく合の手から、「車軸を流す雨雷」のところ「間近く聞ゆる轡の音」のところなど、誠に面白い三味線である。この物語は三世鶴沢清六の得意のところで、前にもご紹介したが、このレコードでは少し違った手が入ってゐるやうに思ふが、私は専門的なことは知らない。
( 水底、早瀬の大河... ...悔み涙にくれゐたる)(大西)

(忠四)
「忠臣蔵」四段目、判官切腹の段。
これは彌太夫得意のものであり、三味線は彌太夫の甥で、仙之助から六世豊沢源吉を襲いだ人で、植畑の師匠といはれた三世團平の弟子である。
レコードが古くて聞き苦しいことと思ふが、彌太夫のレコードは何分数少いので貴重なものの一つであるから、御辛抱願ひたい。
( 力彌御意を承り... ...エエ無念口惜しいはやい)
この浄瑠璃は「通さん場」といって浄瑠璃が始まると、一切お客の出入りを差止める程、場内の静粛をやかましくいったが、しはぶき一つするもののなかったいふのであるが、彌太夫のキメの荒い浄瑠璃のやうで、一種ピーンと針金を張ったやうな緊張味が、写実風の語り口の中に聞きとれる。
( ハハア 委細承知仕る... ...根ざしはかくとしられけり)(大西)