戻る

     

名人のおもかげ資料 九世竹本染太夫

使われた音源 (管理人加筆分)
ライロホン 絵本太功記 尼ヶ崎 九世竹本染太夫 四世豊沢広作   音源
ライロホン 菅原伝授手習鑑 寺子屋 九世竹本染太夫 四世豊沢広作 音源

        

放送記録 
60回 昭和25年7月19日 解説:高安(六郎)九世竹本染太夫の「尼ヶ崎」(一)
70回 昭和25年8月10日 解説:高安、(片岡)我当 九世竹本染太夫の「尼ヶ崎」(二)
361回 昭和27年4月14日 解説:木村(豊三郎)九世竹本染太夫の「寺子屋」
435回 昭和27年9月15日 解説:木村 九世竹本染太夫の「尼ヶ崎」

         

(染太夫) 九世竹本染太夫は、本名秋山滝造、嘉永六年十一月、讃岐上出在家村の生れ、生れつき大兵肥満で力も強かったので、若い時分に角力取りになり、滝之海と名乗ってゐたが、二十三才の時、好きな道の義太夫に転向し、四世竹本住太夫の弟子になり登勢太夫の名を貰ふ。
それから三年目に谷太夫と改名し、美声と腹の強いので人気があった。
師匠の住太夫が歿した後は、改めて五世竹本弥太夫の弟子になり、四十五才の明治三十年五月に九世染太夫を襲名。
大正二年四月攝津大掾が引退した後、顔順から行くと、櫓下が廻ってくる筈なのであるが、櫓下はどうやら越路太夫にいきそうになったので、そのせいでか、九月には自分も引退し、大正五年二月二十七日、中風癌のため、住吉公園の自宅で六十四才で、病歿。

 九世染太夫は 身体の大きい、声も大きく きれいな太夫であった。薄い天然痘も瘢痕があったので、ひそかにきにしてゐたようである。いつか弟子がパイナップルを手土産に持っていったら、何や己の顔みたいなもの持って来てと言うて叱られたそうだ。その癖、弟子が舞台へ出る時には 自分で足を運んで 仲間へ挨拶をしてやるような、やさしいところがあった。毎朝早起きをして堀江の家を出て 土佐の稲荷さんと阿弥陀池へお参りし、帰ったらすぐに稽古にかゝるという芸熱心であった。
 染太夫に二十一才までは、滝の海といふ角力取であったと弟子の染登が 話して居た。明治時代のあの攝津大掾 花やかなりし頃、評判の三代目越路太夫よりも 顔は上であった。「菅原」の車場の掛合でも、勿論声柄もあるが、越路の桜丸、七五三太夫の時平に対し松王を語って居る。
 一体動かぬ浄瑠璃だと云われて居たが、声がよかった。殊に二の音が実によかった。鶴沢清八が鶴太郎から叶になった頃、暫く弾いて居たが、「義経千本桜」の法眼館で  静かは君の仰せをうけ という字合が また大変よかった。こゝで三味線の一で トーン受ける筈なのを、美しい声に聞き惚れて 清八はトーンを弾くのを忘れたという一つの話がある。この法眼館は特に十八番ものであったが、この後の狐言葉の旨かった事、情合の好く出て居る事は、お聞きになった方は覚えて居られると思ふ。大きい身体で、力も強かったせいでもあろう。見台には、左の親指の当る処だけ 漆が_げて居たといふ。(木村)

染太夫は声量が十分であったから、堂々とした立派な語り振りで、二の音の冴えた強い声と云われてゐる。二段目ものは何でも良かったが、いくらか芝居じみる。芝居であったらよくはまるであろうが、素浄瑠璃ではボロが出るとの悪口もあり、貫目ばかりでモウ一つ実が無いとも云われた。後に三味線の紋下になった松屋町の広助はずっと彦六へ出て居たが、彦六が閉場して明楽座、それがまたやめになってから引込んでいたのを、この染太夫を弾くので文楽へでたが、モウ一つイキが合わなかったと云ふか、終には弟子の広助に譲ってしまったという。本人はしかし中々自信があったらしく、先年亡くなった道八の友松時代に「布引」の四つ目を人に教えていると聞いて あんなヨタ浄瑠璃を習うのかと笑ったが、その人が染太夫に「御所桜」を習っていると聞いて、道八がそれこそヨタ浄瑠璃やがなとやり返した。
昔 本阿弥光悦が、たしか徳川家康から、当時天下の三名筆は誰かと訊ねられたところ「…それから松花堂に近衛三藐院様で御座います」と答えた。この「それから」というのは、「先第一は光悦自身で、それから次は」との意味であるが、それほど光悦は己が腕に自信を持っていたと見える。
丁度それに似た話が染太夫にもある。染太夫がある時、人の問に答えて、当時浄瑠璃の四天王として先づ攝津大掾、これは誰しも異存の無いところであろう、次は先代の大隅に法善寺の津太夫、こゝまでいうてあとはだまってしまったので、「師匠、その次は」と押してたずねると「俺や」
 こんな具合であったから明治四十五年には法善寺は亡くなる。三世大隅は文楽に居ないから、攝津の次に紋下は当然自分のものと独りきめていたらしいのに、どうも予想に反して三世越路太夫の方へ札が落ちそうな気配が濃くなって来たので腹を立てたのか、大正二年の四月に攝津が引退し 大隅が七月に台湾で亡くなった後、とうとう九月に染太夫は引退したが、大正五年二月中風か何かで歿くなった。晩年は何れかといえばまず不遇の方であったのは気の毒なことだ。(高安)

(太十)「絵本太功記」の初演は、寛政十一年(1799)で、七月十二日大坂道頓堀若太夫の芝居で初日をあけた。その二年前の寛政九年に、法橋岡田玉山が著わした「絵本太功記」が出版され、それが好評だったので、その中から材料を取り明智光秀の一件を主にして出来た。作者は、近松柳、湖水軒、千葉軒の三名で、中でもこの柳は「太功記」の他に「日吉丸」や「賢女鑑」を書いているが、何れも秀吉に関係したものである。本名は錺屋久兵ヱというて享和三年即太功記が出来てから四年目正月三日に四十一才で亡くなった。墓は生玉神社の南にある大宝寺で十五年以前、無縁として片づけられようとした極間ぎわに、木谷蓬吟が見つけ出してやっと保存されるようになった。
 この浄瑠璃は天正十年六月一日から十三日まで十三冊、別に発端一冊合計十四冊であるが、始めに安土城で蘇鉄の意見あり、六月朔日に二条城で例の森欄丸に眉間を割られる條と、光秀の館、二日は本能寺の夜襲で 阿能局の討死などがある。それから高松城の水責めや、鈴木孫市切腹などがあって、七日が妙心寺、こゝが光秀が自決しかけたり、母のさつきが我子の非道な行に腹を立てて家を出て尼崎へ閑居する。それが十日で十段目いわゆる太十と呼ばれる眼目の場である。十三日に小栗栖で光秀が最後をとげるのが大詰になっている。
 そこでこの太十には気丈な老母、貞淑な妻の操、父とは違って優にやさしい若武者の十次郎、その許婚である可憐な振袖姿の初菊、それから初め身軽な旅僧に姿をやつし、後には立派な大将と名乗る秀吉に主人公の猛将光秀と、随分沢山な役々ですが、何れも皆それぞれの演どころ、語りどころがあって、それを一々語りわけるには一通りや二通りの苦労でなく、昔から数数の名手が演っているが、何れも適る適らぬ処があって全部を満足に語りおゝせた太夫はあまりいない。またさまざまと苦心の結果で、語り方もいろ\/に変っているがそこがまら一般に喜ばれる原因の一つでもある。
( 残る蕾の花一つ…  …其鎧櫃爰ヘ爰へ、アイ)
 レコードは十次郎が初菊との祝言を許されたあとの述懐から始まり、涙かくした祝言から悲壮な出陣で終る。
( サ早う、時延びるほど不覚のもと…  …悲しさ隠す笑ひ顔)
 人形の方では単に鎧櫃を持って入るに引かえ、歌舞伎では甲だけを重そうに振袖にのせて引きづったり、いろ\/と誇張に過ぎた型がある。
( 随分お手柄功名して…  …行方知らず成りけり。)
  胸は八千代 ので十次郎は軍扇で顔をかくし、初菊は下手で泣き伏す姿は哀れで美しい。
止める初菊を振りきって入るが、歌舞伎では花道を使って美しい引込の型がある。
 この太十は浄瑠璃でも芝居でもよく受けるので方々でよく出るが、いつやらさる田舎でこの芝居をやった処が、その時分はまだ検閲がやかましかったので、巡査がやって来てツクヅクと看板を見ながら、これは誰々と一々詳しく訊問する。
 これが明智光秀でこれがその女房と母親かとまるで戸籍調べ。フンこれが息子の十次郎か成程、そしてその傍に居る若い娘はその許婚か、その親は誰か …それには一同ハツとつまった。本文には初菊の親については何とも書いてないので返答も出来ない。相手は一向何の頓着もなく「イヤ一体誰の娘か」と詰問するので、さすがに立作者だけに、大川澱江翁が「ハイあの四方田但馬守の娘で」と、恐る\/答えたので無事済んだと先年亡くなった同君の話であった。(高安)

「太功記」十段目のレコードは、珍しく口上から入って居る。その口上の言い方も 今日とは変ってゐるし、語りますは染太夫といって、竹本を省略してゐるかと思うと、三味線 豊沢広作と丁寧にいうている。
猶「太功記」十段目といわず、十冊目といふ。この絵本太功記は六月一日から十三日至る期間の出来事を書いたものである。万事鷹揚な語り口だ。
大体麓太夫の風で行く筈の約束を、西風でやってゐるようである。尤も この頃は 余り風などという事はいわなかったようだ。 アゝコレ\/ 声が高いといふが、これも今日では、アゝコレと押えて改めて声が高いと言い慣わして居る。そうでないと 後の そなたも武士の娘ぢやないか と、つく様に思ふ。何としても 器用ぶらぬ素朴さがよい。
 この後で 察しやったる重次郎、包む涙の忍びの緒、しぼり兼ねたる計りなり  の一節だけ 時間の都合からか 省略して居る。
それから 旅僧のところで  コレ\/上様、風呂の湯が湧きましたの コレ\/は旅僧に身をやつしては居ても、実は眞柴久吉であるから この場合は狂言言葉でいうのだと鶴沢清八が教えてゐるのを聞いた事がある。
この  あゝコレ\/ が一寸 おそまつに思える。
 ラッパ吹込の時分の事で、技術も充分でないと見え、レコード一杯「六具」まで言ってその裏で「六具かたむる」と言い直して居るのも面白いし、三味線を どの位置に置いたのか、よく鳴る広作の三味線が遠いところでなって居るように思う。何にしても、染太夫は若い頃、阿波の源之丞の芝居へおいだきにいって露天で鍛えた人だから スケールの大きい、貫禄のある浄瑠璃という事が わかっていただけたと思う。(木村)

(寺子屋)
( やあ未練者め… )
 今日とは大分行方の違う大まかな 稍芝居がかった浄瑠璃である。何だか理屈なしに面白い。このレコードも時間の都合で かなり省略がある。かと思うと、内で存分ほえたではないかの後へ 見苦しいといふ言葉を入れて居る。
 この時分の吹き込みはラッパ式のもので、之が又、やるものには気になったらしく 絶句と思える処がある。
 小事に拘泥しない貫禄で談る浄瑠璃という事は確かに言える。さきに 我子は来たか を 我子は如何に といったがこの奥で わっと計りに泣き沈む を  前後不覚に泣き沈む と いったりして居る。
 何しても声量が豊富なだけに泣き笑いは立派だ。つの音の発音が 一寸辛いようだ。
 三味線は四代目豊沢広作、此方は名庭絃阿弥の高弟で師匠が広助を継がれた時、前名の広作をゆづられた山田新次郎である。
染太夫引退後は、菅太夫や尾崎の源太夫を弾いて居たが、まもなく亡くなった。
三味線は 力がはいってくると、目を閉ぢて顔を横にふるという妙な癖があった。
お客が拍手喝采を送るまで弾きまくるのが評判であった。(木村)