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名人のおもかげ資料 二世竹本春子太夫

使われた音源 (管理人加筆分)
ビクター  壷坂観音霊験記 沢市内 二世竹本春子太夫 二世豊沢新左衛門
ビクター  八陣守護城 政清居城 二世竹本春子太夫 二世豊沢新左衛門  音源
シンホニー 艶容女舞衣 酒屋 二世竹本春子太夫 二世豊沢新左衛門    部分音源
ビクター  心中天網島 紙治 二世竹本春子太夫 二世豊沢新左衛門

放送記録 
67回 昭和25年7月31日 解説:大西(重孝)二世竹本春子太夫と豊沢新左ヱ門
151回 昭和26年2月2日 解説:高安(六郎)二世竹本春子太夫の「八陣」他
461回 昭和27年12月14日 解説:安原(仙三)二世竹本春子太夫の「酒屋」と「十種香」


 二世竹本春子太夫は慶應三年二月 大阪に生れ、明治十八年、三世大隅太夫の弟子となる。師匠の前名春子太夫の名を襲ぎ 尚後に土佐太夫となった伊達太夫とともに大隅直門の双璧として彦六系の芝居で重きをなしたが、昭和三年五月、六十二才で歿。
 又、この春子太夫のために永く相三味線をつとめた二世豊沢新左ヱ門は、春子太夫と同じ慶應三年五月、大阪新町に生れ 明治十二年豊沢松太郎の門下となり、豊沢松吉と名乗り、更に松三郎を経て明治三十一年四月 二世新左ヱ門を襲ぎ この時春子太夫の「_源氏伏見の里」を弾いて以来、二十数年間という永い間 その相三味線を勤めた。大正十一年文楽座へ招かれて昭和十八年三月 七十七才で歿。
 二世竹本春子太夫は、慶應三年二月 大阪の南区安堂寺町井池で生れたが、代々家根屋でも義太夫が好きで俳名を丼といゝ、天王寺の庄屋から玄人になった長尾太夫の倅である。鶴沢鱗糸という三味線弾きの弟子であったが、春子も幼少の頃から、母に三味線の手ほどきをして貰ったこともあるので 七ッの時に鱗糸の弟子になって小鱗と名乗り、十才の時大江橋の小屋で初舞台を勤めた。その翌年 師匠鱗糸の会で父が白石の七ッ目新吉原を語った時 三味線を弾かされ「入相の鐘」までいってコクリ\/居眠り出したという大変な三味線弾きであった。
 十三才で父の遺言により小鱗太夫という名で語手になったが、東京で修業がしたくてたまらず、その時分まだ汽車はなく、神戸から横浜まで船賃が三、四円であったから、貸家の金を二十円程持って家を飛出し神戸まで言ったものゝ、宿屋で酒を飲み芸者をよんで大散財したゝめスッカリ裸になったのが十五の歳といゝますから驚く。
 名人の三世大隅太夫の弟子になったのが十六七で小隅の名を貰ったが、方々で可愛がられるせいでか中々お尻がおちつかず誘われるまゝに 大阪を飛出し横浜から東京、東海道筋から信濃路や北国辺を素浄瑠璃や或は伊三郎の人形一座へ入って巡業した。
 成績は大体上々で殊に新潟で綱太夫の甥が来ると大評判で絵草紙まで出たという騒ぎであった。この綱太夫というのは今から二代前の六世で明治十六年九月に死んだが、身体中に彫もののある江戸児で明烏や柳が非常に評判で、この人の粋で綺麗な語り口を真似て失敗したのが朝太夫で 春子はそれを上手に自分のものにしたとも云われている。別に何の関係もなかったが興行政策上こんな宣伝をやった。そして いつも大入りをとり富山などではさる大家のお嬢さんから特別の御ヒイキをうけたなどお安くない挿話もある。
稲荷の彦六へでたのが明治二十二年、二十三の春からで、この時本ものゝ春子となり給金が一芝居二十五銭で それまで東京などで自家用車で乗廻っていたのと雲泥の相違であるが、これから元の歩に帰って一からやり直すので、名人団平なんかからもビシ\/叱られたそうである。ただ旅から旅へと東国をまわり歩いたため語口も派手に浮わついているので方々から いろいろと非難をうけた。
 しかし明治二十九年の頃、稲荷座で「妹背山」の吉野川で名人揃いの中に入って久我之助をやって非常に高評を博したこともある。大体に二の音が特に巧く使えるのでマクラなどは素敵で、新聞社の人に贔屓があって日本一とはやし立てたので一度に人気があがり、皆がやかましう賞めたから、三代目貴田の越路がソツと聞きに行ったところ、マクラを聞いてウーンとうなったそうで それから言葉になって、ヤレ\/ と安心して打ちくつろいだという。 (高安)

春子太夫と云う名前は名人三世大隅太夫の前の名前で、大隅太夫が五世春太夫の門弟であった関係で、春子太夫を名乗っていた。だから春太夫の系統の名前であるが、二世春子太夫は春太夫らしくない 前受けする語り口である。 然しそれだからと云って決して、悪い意味のケレンの味は全然なく 充分に修業した芸であるので、聞いていて成る程と得心させる処があった。春子節と云って一時大評判になっていて、素人の間にも此の節を真似る人も随分と
沢山あった。大変仇っぽい声で 鼻へぬけた。独特な節廻しは聞く人をひきつけるものがある。ずっと堀江座の方に出て居て、文楽へは一度も出た事はない。東京の有楽座へも_々出演していたので 東京の方にも随分馴染みが多かった。然し堀江座時代が一番人気もあり、又油も乗り切っていた。晩年近松座から、京都の竹豊座へ出演していた頃は持病の糖尿病が出て、昔の華やかさは見られなかったが、却って澁味が出た為、一部の人々の間では姥桜になったと云って、却って珍重がられていた。元来地合の巧い人で、詞は同じ調子の為に「どちらかと云えば下手だった。得意なものと云えば「酒屋」や「鰻谷」又「熊谷陣屋」や「鮓屋」の様な大物もよく、それから「廿四孝」の十種香、「沼津」など。「沼津」の小揚で十兵ヱがお米に向って「モウ面目ないが、わしやこなさんに惚れたわいな」などは毎日聞き手をワッと云わせていた。又平作内になって お米のクドキをあのアダな声で聞き手を十二分に堪能させていた。(安原)

 名人團平が三世大隅太夫の相三味線となったのは明治十七年十一月のことであるから、二世春子太夫が大隅太夫の許へ入門したのは、丁度その翌年のことである。団平が自分の理想とする浄瑠璃を大隅太夫へ語らせようと、血のでるような猛練習をつづけている有様を、新しい春子太夫は毎日親しく見たことであろう。そして春子太夫自身も 師匠から厳しい稽古をうけて少しおくれて弟子入りした伊達太夫(六世土佐太夫)とともに、堀江座時代には大隅直門の双翼として、師匠を助けて文楽の牙城に対抗して一歩も譲らない意気を示したものである。伊達の美声に対して、春子は難声の方であったが、見事な二の音の持ち主で 独特の節廻しが意気に聞かせたので この人の浄瑠璃を「春子節」といって 一時は大阪市中の浄瑠璃通に非常に悦ばれたものである。「八陣」の 都でお別れ申して より「鈴々森」の 可愛い夫へ義理立てば、などは春子のこの一節を聞きたいばかりに何回ちなく通った人が今も相当居られる筈だと思う。
「鮓屋」「酒屋」「鰻谷」などといった大隅系の世話物が得意であったが、「合邦」の「 しんたる夜の道」のマクラなど 陰に篭った気分を描くのに不思議な技巧をもっていた。そして「国性爺」の獅子々城の段といった大物を語って評判をとった。それは近松座の開場の時である。
 春子は肚の薄い欠点をもっていたといわれる反面「獅子々城」のような大物を語りこましたということは、その実力のほどが、どんなに深かったか、実に驚くばかりである。山城少掾が初役で「熊谷陣屋」を語った時、この春子太夫を親しく訪ねてその語り口を研究したということを聞いて居るが、これは当時、山城少掾も自分の肚の薄さを補うために、春子の鍛錬をへた工夫を学ぼうとしたからだと思う。
 師匠大隅太夫が台湾で客死した時は、伊達太夫は文楽座へ去ったし近松座も弧影悄然たるものがあり、長子太夫(六世弥太夫)と共に悪戦苦闘していた時は、実に悲壮なものがあった。彦六系の最後の牙城も遂に力及ばず、大正三年に閉鎖した。後に京都に出来た竹豊座の櫓下に座ったが、数年後に付座 松竹の勧誘を斥けて文楽にも入らず 北久宝寺の自宅で下駄屋を営む傍、春翁と号して、素人浄瑠璃の審査などをしていたという。晩年は芸の上では誠に恵まれるところ少い太夫であった。
 二世新左エ門は明治三十一年四月 松三郎から新左エ門を襲いだ時から 春子太夫の相三味線となり、明楽座、堀江座、近松座、そして竹豊座に至るまで、二十数年という長い月日の間影の形に添う如く春子太夫を助けて来た人で、春子の一風変った陰へ篭った浄瑠璃の伴奏として、低調子でいて、而も美しく華やかな音色を研究しつづけて来た。
 春子太夫が大正九年十月、竹豊座を退いた時、新左エ門も一緒に付座して、京都に引篭っていたが、先代清六を失った古靱太夫(山城少掾)の相三味線として文楽座へ招かれたが、芸風の相異からか、暫くで別れて、後は錣太夫を永く、そして一時的に今の若太夫、住太夫などを弾いていたが、新左エ門も亦、春子太夫と同様晩年は恵まれるところの薄かった名人である。
 新左エ門を襲名した時は、名人団平が「志渡寺」を弾き乍ら床に 倒れた時であり、団平の身体を道八と共に床からかき下したのも この人であるし、重態のまま自宅へ運ぶ道すがら団平の脈をとっていたのもこの人である。団平の葬儀がすんで家へ帰って御飯を食べようとすると、なんとも云えず師匠の最後の匂いがする。どこへ匂いが染んだのか調べてみると、脈をみるために師匠の手を握っていた右の手に移っている。石鹸や揮発油で洗ってもとれなかった。それを友達に話すと、「そら、ええで、きっと団平はんの手が、うつったんや、芸がようなるぞ」
 とからかわれたが、私の芸は相変らず未熟で 臭い匂いだけがついて、団平師匠の芸はうつらなかったようだ と、生前話したことがある。(大西)

[壷坂] マクラの例として「壷坂」を送る。いかにも立派で気持良く語られているが、さすが師匠大隅のような「糸より細き」貧乏なわびしさ哀れさは出兼ねている。山の方は言葉でいくらかその系統らしい匂はせぬでもないが、「露と消え行く」などの深刻味には大分距りがある。
この人の語り口は色気というかエロ味というか、美声ではないが一種の魅力で聞手を引きつける。春子節などと云うて独特の節まわしで大阪中はもとより、この道の好き者を夢中にさせた。その頃の北の新地といえば大の文楽党であったが、皆一時はスッカリこの春子節に惚れ込んでしまうてその真似をしたので攝津大掾が承知せず、早速一同を横堀の自宅へ呼寄せ、あれはあの人がやるならそれでよろしいが、皆がそれを真似ると邪道で この道に背くから注意せねばならぬと戒めた。(高安)

[八陣] 八陣は徳川方へ抑留されていた加藤主計之助が父正清の病状を窺うため熊本へ帰って来て、許婚の雛衣、徳川の家臣森三左エ門の娘と会うところで「その心とは露知らず以下」のサワリ。(高安)

[酒屋] 「酒屋」のレコードは、大正二年頃の吹込みになるニッポノホンレコードで、近松座出演当時のものであるから、全盛期のものではないが、それでも春子太夫の面影は充分出ている。むしろ此の方が枯れていて、妙味は優れているかと思う。三味線は二世豊沢新左エ門で、春子太夫は舞台を引く迄此の新左エ門が相三味線であった。
( 詑り入ったる挨拶に…  …仰言って下さりませ御二人様と跡は)
只今の処、春子節でありながら、少しも浄瑠璃を作っておらず、まともに語っているから少しも嫌味を感じない。芸も此処に至れば大したものだ。浄瑠璃は作っては嫌味が出る。自然にその人の持味を生かしてこそ、ほんとの味いがでるものと思う。次は少し飛んでお園のクドキ。
( 跡には園が憂思ひ…  …恨みつらみは露程も)
節を持って廻って、十二分に楽しませてくれる。
( お気に入らぬと知り乍ら…  …恨みつらみは露程も)
これが有名な春子太夫の「酒屋」である。レコードは此処で終わっていて跡は残っていない。こう云う様に或る太夫の専売特許とでも云うべき物は是非一段全部残して置いて貰いたいものだ。(安原)

[紙治] 春子太夫と新左エ門が華やかだった舞台を偲ぶにふさわしいレコード。「天網島時雨の炬燵」のおさんのサワリ。
( 憎ましやんすが嘘かいな…  …思はず涙をこぼしたはいなう)
「小春が汲んで―」の「ン」の字が聞えない。これはレコードのせいではなく、春子太夫は「ン」の字がハッキリ云えなかった人である。しかし「ン」と云えない間にいくつもの節が聞かれたと、春子党は悦ぶところである。(大西)