名人のおもかげ資料 七世竹本源太夫
使われた音源 (管理人加筆分)
ニッポノホン 生写朝顔話 笑い薬 七世竹本源太夫 四世野澤勝市 音源
コロンビア 絵本太功記 尼ヶ崎 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸
コロンビア 三十三間堂棟木由来 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸
ニッポノホン 近頃河原達引 堀川 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸 解説文なし
ヒコ−キ 箱根霊験躄仇討 三人上戸 七世竹本源太夫 四世野澤勝市
ニッポノホン 国姓爺合戦 楼門 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸 音源
ニッポノホン 仮名手本忠臣蔵 六段目 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸
?ビクター 恋女房染分手綱 沓掛村 七世竹本源太夫 野澤吉松 解説文なし
詳細不明 心中天網島 河庄 解説文なし
放送記録
52回 昭和25年7月5日 解説:大西 七世竹本源太夫の「笑薬」
152回 昭和26年2月5日 解説:大西 七世竹本源太夫の「尼ヶ崎」(1)
185回 昭和26年4月11日 解説:吉永 七世竹本源太夫の「柳」と「堀川」
190回 昭和26年4月23日 解説:大西 七世竹本源太夫の「尼ヶ崎」(2)
197回 昭和26年5月23日 解説:大西 七世竹本源太夫の「躄仇討」
311回 昭和27年1月24日 解説:木村 七世竹本源太夫の「躄仇討」
410回 昭和27年7月25日 解説:大西 七世源太夫と五世猿糸(仙糸?)の「国姓爺」と「忠六」
494回 昭和28年8月16日 解説:木村 七世源太夫の「沓掛村」と「河庄」
七世竹本源太夫は、明治十四年大阪大宝寺町で指物師の子として生れる。幼い頃から音曲を好み 近所の浄瑠璃師匠のところで浄瑠璃を覚えて 子供太夫となってあちらこちらの寄席などに出た。十二才で六世源太夫に入門して源子太夫と名のる。明治三十年 師匠について稲荷座から御霊文楽座へ移ったが、師匠が亡くなると 摂津大掾に師事し 明治三十九年 源子太夫から七世源太夫を襲名した。歿したのは昭和十年四月で五十五才。
七世源太夫は 指物師の子として生れた。この父は職人気質の変屈者で 立派な仕事師であった。母は小竹といつて、芸を以って宴会の席をとりもつ、上方で申す雇女(やとな)であったといふから、こうした母の血を享けて、幼い頃から芸事が好きで、五つ頃には 近所の浄瑠璃の師匠のところへ遊びに行っては、浄瑠璃の片言をしゃべる様になってゐたと言はれている。身体が弱くて二十頃まで命があるかしらんと案じられてゐた程であるから 本人の好き放題に任せてあったので、とうとう勧められるまゝに、子供太夫となって床に立ち、またたく間にどっさりを語る様になった。十二才のころ、即ち、明治二十五年当時彦六座に勤めて居た 六世源太夫に入門して 源子太夫と名のり、玄人の太夫となった。
師匠が稲荷座から御霊文楽座へ移ったのは 明治三十年であったから、源太夫の 十七才の頃で、その後ズーッと引続いて文楽座の床に立ち、昭和四年五月まで、三十数年間と云うもの、長い修行の果てに津太夫、土佐太夫、古靱太夫(現会の山城少掾)につぐ位置に進んで 立派な浄瑠璃を語って居た。
師匠の六世は大團平が「ホントの太夫は 春さんでとまりや」と云ったといふ五世竹本春太夫の弟子で、よい聲のところへ、上品な語り口であったので「阿古屋の琴責」の重忠などを語ると、あの口の悪い先代大隅が「これだけは わしは叶わん」と云った程である。マクラの 水上清さ堀川御所 当時鎌倉の厳命に従ひ と云ふところがあるが、重忠の位が充分で、京都の所司代の格合が立派に語れゐたからであろう。この六世は、明治三十四年十一月、六十五歳で歿くなって居る。
その後は春太夫の高弟であったアノ有名な摂津大掾の預り弟子となったが、同じ大掾の弟子、越路(三世)もさうであった様に 組太夫の浄瑠璃に傾倒して居たと云われているから、源太夫の浄瑠璃が、錣太夫などの様に下品な所がなく、上品で而も達者なところは、組太夫の芸の影響があるのかと思ふ。
「朝顔話」の笑い薬は 非常に面白く語れて居るし、「箱根霊験」の三人上戸も同じ系統のものであり、それを語ると、「アレ組さんの真似をしとるのや」と周囲のものが話して居たのは この間の消息を語るものかと思ふ。腹が強いといふか、丸味を帯びた聲がズーッと通つたので、これから御送りする「太十」の十次郎が前髪の色裃を着た若武者の忠と恋とに打ち沈んだ様など、よい味を聞かせて居る。
由来、浄瑠璃で前髪の人物を語るのは難しいものとされて居り「二十四孝の十種香の勝頼や「千本桜」椎の木の小金吾などが充分に語れると その浄瑠璃の面白さが生き\/としてくるものである。源太夫は師匠から非常に可愛がられたので、師匠の亡くなった後、その妻女を自分の家へ引き取って、その亡くなるまで二十年近くも世話をして居り、家族のものもこれを、おばあちゃん\/と馴染んでゐたと云ふことであるから、源太夫といふ人柄なり、家庭なりがよく判る。
この師匠の妻女の面倒を見たからといふのではないだろう。昔の太夫連中は芸の修行に打ち込んで、家庭を顧る隙がなかったのであろうか、その本人が亡くなると、決ったように遺族のものが、生活に困って いつどこへいつたものか、同業の人達の間から消息を絶っていまふのを、目の当り見て来た源太夫は「わしらは始末して 金をためておかなあかん」と口癖の様に話して居たから、相当金が出来たであろうか、松屋町の師匠(六世廣助)のところへいき、「もういつ死んでもよろしおまつさかいに、これからうんとお稽古をおねがいします」と申し出たことである。
その頃であろうか、勧める人があって、家を買わうとしたが その家には借家がついているのを知って、「芸人が家賃をとりたてにいくのんは、えゝ加減なもんやで」と云って中止したことがあった。「おれは ズーッと自動車の入る様な家を買ふたる」と云って居たさうであるが、相場好きといふ悪い癖があり、遂に自分の家を持つことが出来なかった。しかし、今日文楽で勤めて居る三味線の鶴沢藤蔵は その娘婿であり、太夫の織の太夫君はその孫であり、二人まで立派な文楽の後継者を残していったのである。
源太夫は弱い身体であったが、浄瑠璃で語った所為がめきめきと、太夫に来るに従って、酒をたしなむ様になり、酒気の消えないまゝに床に立つこともあったらしく、いつかも、「太十」を語って居り、 現れ出でたる武智光秀 と大きく尖張って語って居ます間に ツト自分が床に立ってゐることに気がつきました拍子に、胸がドキ\/して参ったので、それ以来、心臓の方に自身がもてなく 爾来、床に立つまでは酒をのみなやと他の者にも戒めてゐたということである。
(大西)
前に七世源太夫の「朝顔話」の「笑ひ薬」を放送した時、源太夫は肚の強い太夫だった、肚の強い太夫であければ、浄瑠璃の笑ひは出来ないといつたが その源太夫も若い頃には、すっかり声の出なくなった時代があり、張切りより下の声さへウンもスンも出なかつたさうである。それが後には声のよく通る、天声の立派な太夫になったのは、やっぱり執心な修行の賜物であろう。本人も 「稽古さへ一生懸命にやれば声のことなど、心配はいらぬ。声は天下の廻りもの、丁度お金みたいなもンや」といつてゐたといふことである。
源太夫は器用にまかせて、人気があったから、少々慢心も起ったものであろうか、人の浄瑠璃など歯牙にもかけなかつたが、豊澤仙糸を相三味線に迎へた頃から、熱心に勉強をした。本興行の役が決ると、仙糸師匠を自宅に来て貰って、先づ一週間はみっちりと、稽古をつむ。毎日朝から始って、晝飯の一服が終ると午後の稽古になる。夜は夜で繰返す。そして師匠が帰ると、自分の居間へとじこもって一人で語るといった具合で、只今の文楽の鶴澤藤蔵(当時は清二郎)は、その娘婿であるが、「あないに熱心やったら、巧くなるのは当たり前や」と思ったと、当時のことを追懐してゐた。
清二郎といへば、源太夫が九州の旅へ出る時 仙糸が病気でついて行けなくなったので、清二郎が舅の三味線を弾くことになった。一行は先代津太夫 土佐太夫 古靱時代の山城少掾に亡くなった錣太夫 大隅太夫といった人々で この時の源太夫の役は「菅原」の佐太村「日向島」の花菱屋に「本蔵下屋敷」といてたもので 一日の役が済んで宿へ帰ると「清二郎 稽古やデ」といって その日の語りものゝ稽古を繰返すのである。自分が語って行く内に、三味線の拙いと思った所を 床本の端を折って印にしておくのであるが、この為に初めは本の厚さが倍近くにもなる。それを宿で一々やり直して「それでは語れん、こう弾くのや」と繰返す この稽古が終らないと夜食もとらないから清二郎も途中で目まひがしさうになる。「この稽古が済むまでは 俺も飯は食はへん お前も食ふな」といふのであるから 仲々熱心なものである。こんな事を毎日繰返して一ヶ月の旅を続けていく内に宿での稽古は殆どなくなった。この様に源太夫が清二郎を叩き直さうとした処は 取りも直さず源太夫自身が修行をして来た同じ道だったのではないかと思ふ。この旅から帰ると源太夫は「清二郎もようやりよった よう病気になりよらなかった。当たり前の人間なら とうに寝込んでしまつとる。」と家族のものに洩したさうであるが、そこにも婿に対する親としての心遣ひのほどが窺はれる。
源太夫は仙糸の恩を徳としたことは一通りではなく 仙糸の絃で吹込んだ思ひ出の「国姓爺」の楼門のレコードが今も残ってゐるが、これを源太夫が聞きながら 「仙糸さんもよう弾きやはる。おれも吾ながら よう入ったァる。これだけは内の宝として大切にしときや」と口癖のやうにいつて、気分の悪い時には、自分でこのレコードをかけて満足げに聞いてゐた といふことである。
源太夫は昭和四年の五月、弁天座の假興行で「一の谷の」のはやし住家を語ったのが最後の舞台であったが、四つ橋に竣工した文楽座の床にもう一度上るつもりで「堀川」の床本をもち出して 腹帯をしめて、清二郎の三味線で稽古をしかけたこともあるが、五六枚のところまで行くと「やっぱりあかんヮ」と淋しい顔をして本をとじたといふことである。持病の心臓のため、ついに床に立つことが出来なかった。(大西)
七世源太夫はなか\/肚の強い達者な浄瑠璃を語って大衆に悦ばれてゐたが、「逆櫓」「箱根霊験」の躄「帯屋」などがその当り役ではなかったかと思ふ。かうして非常に人気があったから、自分の浄瑠璃に大きな自信をもつてゐて 一時は誰の浄瑠璃も眼中になく 俺の浄瑠璃でなければ − というなか\/の金太郎であった。ところが大正十四年だったと思ふが「彦山権現誓助剱」が出て、この源太夫に二段目のお園出立の役がついた。これがなかなか皮肉な難しい浄瑠璃であって、本人はすっかり手古摺り、相三味線の野澤勝市とともに その興行中 毎日 松屋町の師匠(六世豊澤廣助 後の絃阿弥)のところへ稽古に通ひつづけたが、よくよくこれが骨身に堪えたのであろう。勝市に向って「おれも下手やが、おまへも下手や 下手と下手とが寄ってゐたのでは、いつまでたつてもあかん」と云って その興行限り 二人は別れて了ったといふ話が傅へられてゐる。それ以来 誰の浄瑠璃についても「みな ようやりよる」といって 批評がましいことは一切いはなくなったさうである。その後は豊澤仙糸に弾いてもらったが、この人の三味線で、初めて浄瑠璃が判ったと洩らしてゐた。仙糸の三味線もさることながら 源太夫の心機一転が 芸に大きな進境をみせたものと思ふ。事実 仙糸の絃で「国姓爺」の楼門の段を語ったのが、素晴しい成績であった。仙糸の絃も見事だった。 源太夫の吹込んだレコードに前にいつた当り役の「帯屋」のほかに「朝顔日記」の笑薬や「躄」の三人上戸などが残されてゐる。(大西)
七世源太夫は十二才で六世源太夫の門に這入りましたが、友次郎の話によると源太夫の名を継いだ人々は、代々美声家が多かったさうである。此の七世源太夫もなか\/よい声であったから、大変人気がありました。源太夫のおはこは「赤垣出立」「本蔵下屋敷」「躄勝五郎」「弁慶上使」「油屋」などで、晩年は「国姓爺」楼門「新口村」「朝顔」の笑ひ薬「宿屋」「帯屋」などを得意とした。さて、此の七世源太夫は 人気のあったわりに経済的には、恵まれず、若い時には方々の席に出て咽を痛めた言もあったし、床本を書いて小遣ひをかせいで居た事もある。竹葉堂と署名の這入って居るのがそれで、三世越路太夫の床本は大抵この源太夫が書いたと言はれて居る。そんな苦しい中からも酒となると目がなく 斗酒を辞さずと言ふ酒豪で 譬へ裸になっても酒だけは止められず、山城少掾と夜を徹して飲みあかすと言ふ酒の上での好敵手であった。そして所謂機嫌上戸の上に色男であったから 旅興行では至る所で大もてで、芸者にも度々追っかけ廻されたさうで 中に立つた弟子達も困ったと言ふ話である。 その上源太夫は酒を飲むと人との約束もすっかり忘れていまふ。時には自分の出番になってもまだボーッとして 初めの中は夢うつゝに語って居るが「現はれ出でたる武智光秀」と、それからは自分の気合ではつと本心に立ち返って語り出すので、人によると「源太夫はずぼらで一寸も勉強せん奴だ」と悪口を言ったりもしたが、芸にかけては決して怠け者ではなかった。
明治四十二年の文楽座の七月興行の時、夏祭浪花鑑の通し狂言が出た時 源太夫は勝太郎の絃で五つ目の「天神坂」の段を語ったが、傳八の首つりの「ちゃり」で大成功を収めた。此頃は自分の師匠の稽古をさへ逃げ廻つて 何とかその後をごま化さうとする太夫の多い中に 源太夫は此役がつくと、素人で滑稽語りで有名な清水某の所へ通って 熱心にこの段の研究をしたから 当時の劇評は「素人、玄人に拘らず、其の芸の長者には従ふのがあたりまへだ。能い教へを譲り受けて置けば永代の徳で 問ふのは当座の恥 問はぬは末代までの恥だ。今の若手に斯様な良い心掛けの者が他にあろうか」と褒めて居る。扨此の源太夫の家へ養子に行った三味線弾きの清二郎の話では 源太夫が朝から仙糸と共に稽古を始めると、晝御飯も抜きにしてぶっ続けにやり、仙糸が帰っても其のまゝ一人で部屋に篭って しきりと小声で語っては工夫を凝らして居たさうで、養子の清二郎も あれだけやったら 何ぼ下手でも上手になれるやらうと思ったさうである。代役などで清二郎が源太夫の三味線を弾いた時などは、清二郎の悪かった所を 源太夫がいちいち床本の端を折って目じるしにしておいたので済んだ時には床本の厚みがそこだけは二倍にもなつてゐたさうであるが、源太夫は早速折り目の所をひろげ乍ら 自分で三味線を取りあげて、お前の三味線はかうやった。あゝやった。と下手な所を、一々真似しては徹底的に絞られたと言ふ。そして何を稽古してくれても こゝを俺に教へて貰ふたと言ふなと口止めをしたさうで、こんな時清二郎は養父源太夫の愛情をしみ\/と感じたと述懐して居た。
又源太夫は今の八世源太夫にも口癖のやうに「普通の事をして居たらあかん。人の寝る時に寝たり 人の食べる時に食べて居てはあかん。好いた事をして居るやうでは物にならん。寝ずに勉強しなければ一人前の太夫にはなれん。表に流しが通つても、酒呑みが酔っぱらって管を巻いて居ても 乞食が門口に立っても 研究の材料になるから聞き逃してがあかん。箱根の躄をやる時には乞食の真似も語らんならんよってなあ」と教へて居た。之等の点から考へても源太夫は決して芸の上では ずぼらでも不勉強でもなかった事がわかる。
扨源太夫の修行中にこんな話がある。師匠の六世源太夫がなくなってからは 此の源太夫は攝津大掾について勉強したが、「布引滝」四段目の稽古で、松並検校行綱と娘小桜との出逢ひの所が、なか\/親子の情愛が思ふように出ず 毎日\/口癖の様に「語れん\/」と嘆いて居た。丁度この頃、源太夫は長女を亡くした。葬式を済ませて師匠の攝津大掾の所へ挨拶に行くと「さうか、それは気の毒やったな。しかしこれからあの行綱の情愛がお前に本当に語れるやうになるやろ お前には気の毒やが」としみじみ諭して居たと 今の住太夫が話して居た。立派な芸を作り上げて行くには この様な悲しい犠牲も拂はれねばならなかったのである。
この源太夫は前にもお話した様に 大衆受けのよい浄瑠璃を語る人で 弁慶上使でならおわさの口説きの「國を出でて十年 ー 七年」でソーッと聴衆を沸かせたものである。仲間からは「あんな俗受けの陳列会はいけない」と軽蔑され 批評家からは「花に走って実がない語りすぎだ 大風に灰を蒔いたやうだ。」と悪口を云はれ乍らも 源太夫は源太夫としての道を歩んだ。(吉永)
源太夫は、虚弱な生れつきであった。どうせ永生きはせぬ子だと思はれたと見え、好き放題にしてあった。生れたところ大阪島の内というところは船場と川筋一つ離れただけであるが 気風がすっかり違い 所謂、芸どころで、有名な芸人が多勢住んで居たせいもあったが、ところの人は 誰も彼もが遊芸に凝ったものである。源太夫はこんな所柄で育った上、父も浄瑠璃関係の仕事をしてゐたせいもあり、五才の頃から、近所の浄るりの師匠のところへ通い、その頃流行の 子供浄るりの仲間へ入り 一かどの どっさりになつてゐたといふ。若い時分は声が小さかったさうだが、私達が知ってる範囲では美声で腹が強く その上美男で人気のあった事は御存知の方も多かろうと思ふ。津、土佐、古靱の三巨頭時代に 錣、駒太夫等と共に 第二陣を承って居た。米騒動の時分の事である。文楽は休みで浪花屋に涼浄るりがあった。神経性の心臓もちである彼は 部屋で出番を待ってゐる間に、急に心臓が起った。到底 舞台へ出られそうにもない。それで舞台から「急病のため、源太夫は出られぬ」旨の断りをいふと お客は 「源太夫だけを聞きに来たのだ。どうあっても源太夫を出せ」と承知しない。だん\/さわぎが激しくなって来たので巡査が、楽屋へ来て とにかく顔を見せよ と 仲裁か見分か に来た事がある程だ。新口村の放送の時でも 自分では心臓が怖くて\/たまらず途中で何度もとめようとしたそうである。けれども 神経丈でもなかった。九州へ巡業した時 九大の稲田竜吉博士が前で聞いて居られてこれ以上語ったら危険だと心配したことがある。亡くなったのは 弟子の稽古を終って 便所へ立った帰りに狭心症がおこったゝめである。おそらく野沢勝市を相三味線にして好評であったが、年令と共に自分の芸の行方を考えたのであろうか、弁天座で「彦山」の須磨浦を最后に別れ、同じ芝居の「国姓爺」楼門以外は 豊沢仙糸に変ってゐる。事実、源太夫の芸は之によつて円熟したように思へる。特に「楼門」や「新口」はよかった。(木村)
文楽座の三味線 鶴澤清二郎の主人は源太夫の娘であるが、夫人がまだ若かった頃 お茶やお花の稽古に行き、夕刻になると、夜の電気がつく迄に家に帰ってゐないとひどくご機嫌がわるく、すぐ女中を迎へに寄こしたといふ。七月二十日は難波神社の夏祭であるが、新町に住んでゐた頃、夜になると、付近の氏子の子供達のするやうに お提燈にお火をもらひに行きたかったが、どうしても源太夫はこれを許さなかった。子供心に父の仕打が恨めしかったと、清二郎夫人は語って居た。こんな気質の源太夫であったから、大正九年 妻が亡くなると その後に迎へたのが 先妻の従妹で なんでも十三年ばかり学校の先生をしてゐた人であったといふ事は 子供の躾一切をこの人に託す考へだったやうだ。しかし実際は源太夫の考へとは反対に可成、冷い家庭が出来上がったやうである。
こんな気質であった源太夫は、稽古に来る若い人達の指導も誠に厳しいもので 竹本綱太夫などもつばめ太夫の時代にいろいろ稽古を受けたものがあるようだが、たとへば、「廿四孝」の三段目の立端場「下駄場」といふ皮肉なものでも稽古の後には舞台で語るのを聞きに行っては 「あんなんやったら 別に俺のところへ聞きに来んかてよろしい」と、まことに冷酷極まる批評を下すが、このやうにこっぴどい批評を受けた綱太夫自身は 「師匠はそれだけ責任をもつて指導してくださった。随分ずけずけと云いたいことをいはれたが そこには師匠の芸の裏付けがありました」と、今もって源太夫のこのやうな指導振りに感謝してゐる。源太夫が亡くなった日の前日、故南部太夫は「新口村」の稽古をつけてもらったといふことであるから、死の直前迄 若い人に慕はれながら その指導に当ってゐたわけである。
もう一つ源太夫の日常生活のことをいふと、自分でお料理をすることが好きで 御贔屓の天ぷら屋から油を取寄せて 天ぷらをするといふことになると 附近に住んでゐた清二郎夫人に手伝ひに来いといふ呼出しの使ひが来るといふ有様でまことに大層なことになるが、これも大好物のそばを喰べに九郎右エ門町迄行った日 心斎橋を見物して帰ってから 「今日は俺が鯛のうしほ煮をして御馳走してやるで」と云ってゐたが、持病の心臓が急変して亡くなったといふことである。昭和十年四月七日のことである。(大西)
七世源太夫の師匠は五世竹本春太夫の弟子であったが、その師匠が亡くなってからは師匠とは相弟子であった攝津大掾の預りとなった。したがって、源太夫は春太夫系の太夫であるが、今日ではこの春太夫の系統をひく太夫が極めて少くなったからもし源太夫が生きてゐたら、実に特異な存在として珍重されてゐることと思ふ。
六代目は美声で、しかも上品な浄るりを語ってゐたといはれてゐるが、七世源太夫がいはゆる浄るり声の澁い語り口でなく、澄んだ声で巧みな浄るりを聞かせて居たのは、あるいは師匠写しとも考へられる。しかし、その為に肚の薄い太夫であったと批評する人もある。美しい浄るりのところへ、 時には非常に達者な浄るりも語つて居たから、非常な人気者であった。この人気にために、本人の気位が高くなり、自分より巧い浄るり語りはないやうに思った時代があつたといはれて居る。ところが、大正九年の三月のことであるが、「彦山権現」が出て源太夫にはその二段目の一味斉屋敷の段の役がまはって来た。この一味斉はお園出立ともいふが、お園の親の一味斉が死骸になって戻って来るところでお園はしの字づくしをいつて不吉なことばかりしゃべったり、敵討へ出られない盲目の弟が切腹したりなか\/面白い浄るりである。源太夫はこれを六世広助のところへ稽古にいったが、流石の源太夫も、この浄るりのむづかしさをしみじみと悟って、今までの高慢の鼻先を折られたわけである。その後は他人の浄るりを兎や角いはないやうになったといふお話が残って居る。
源太夫は大正十三年の春から附け物を語る身分になった。附け物は追ひ出しともいつて、一日の通し狂言の最後にお添へもの的にお得意の一段を語らせることもあり、いはば人気ものを優遇する一方法ともいへる。この時は「菅原」の通しに「赤垣出立」を語ってゐる。そして三段目語りとなったのは、それから二年後の大正十五年五月、「菅原」の櫻丸切腹の時からではないかと思ふ。
話は元へ戻るが、源太夫の相三味線は四世野沢勝市であったが、それが五世仙糸に代ったことについては、こんなお話がある。
勿論、源太夫が反省期に入ってからのことで、「おまへも下手やが、わしも下手や、下手と下手同士が、一緒になってゐては、いつまで経っても芸は上らん」といって勝市と別れたといはれて居る。これは血気にはやった源太夫の芸に一転期が来た証拠になるものであるが、最近、またこんな話も聞いた。それは広助だったろうか、「源太夫も勝市の三味線では気の毒や」といってゐたことである勝市の三味線は、コッテリとした味のもので、これに反して源太夫はサラリとした中に巧みな音遣いを聞かせようといふ太夫であったから、どうしても両方の呼吸がしっくり行かなかった点を指してゐるのかも知れない。
(楼門)さうこうしてゐるあいだに源太夫に近松の「國姓爺」の楼門の役がついた。これは前が 島太夫(今の若太夫)で切の獅子ヶ城が先代津太夫であつた。大正十四年五月のことである。「楼門」は近松特有の名文で、むづかしい音遣ひがあって、特別な風格を必要とする浄るりである。この大役を受取った源太夫はこの一段だけ 仙糸に弾いてもらいたいと思った。仙糸は六世弥太夫が死んでから、自由な立場にあつた人で、このやうな特殊な浄るりには うってつけの三味線だった。源太夫はこれに目をつけたわけである。源太夫と仙糸との「楼門」は 楽屋の内外に非常な評判になり 二人のコンビが、この時から始った。源太夫の芸暦の上に一つの記念塔を立てたものであるが、幸ひこれ、レコードにして残って居る。
( 仁ある者も用なき臣は・・・ ・・・獅子ヶ城にぞ着きにける)
舞台には正面に 朱の勾欄をめぐらした二階のついた唐風の門に 厳めしく石で組んだ城壁が左右一様に組まれて居る。この「国姓爺」の初演は正徳五年であるから、今から二百四十年の昔、人形浄るりの舞台にこんな情景をもち込んだ近松の着想に当時の観客はどんなに驚いたことであろう。こゝへ大明国の再興を計らんとする 鄭芝龍 今の名は老一官夫婦が、子供の和唐内を連れて、前妻とのあいだに出来た娘、錦祥女に会ひに来る。それは 錦祥女の夫である 甘輝の助力を求めんとするものである。
( 妻の女房 楼門にかけあがり... ...しみじみくどく言葉の末)
錦祥女は、扨は父かと飛び下りて 縋りつきたい、顔見たいと焦るが、さすが一城の主甘輝の妻としてはしたないことも出来ない。父と仰言しやるその証拠があるかと尋ねる。老一官は唐土を立ち去る時、後の形見と残しておいた自分の絵姿がある筈といふので 錦祥女は予て肌身離さず持ってゐた父の絵姿を勾欄にひろげ、柄付の鏡を取出して、月影を頼りに父の顔を写しとつて見比べるといふ眼目のところになる。この辺の源太夫の浄るりの面白さ、仙糸の三味線の美しさを充分味っていただきたい。源太夫はこのレコードが非常に気に入り、隙さへあればこれをかけて
「仙糸さんはうまいこと弾きよる」
と悦に入ってゐたといふことを 遺族の人々から聞いた。
( なうその言葉が早や証拠... ...親子の印疑ひなし) (大西)
(忠六)「仮名手本忠臣蔵」六段目のお軽の身売りの件を放送しやう。勘平が切腹するところの切場に対して これは端場に当るが、この身売りは 端場の内でも またよう出来たものであり、相当な太夫が語ることになつて居る。源太夫と仙糸とが、サラリと、気持ちのよい世話物を聞かせた当時を偲ぶよすがにしたいと思ふ。
( コレ勘平どの もうあつちへ行くぞえ... ...情けなくも駕篭かき上げ道を) (大西)
(笑薬) 浄瑠璃道では「笑ひ八年泣き三年」といふ言葉があり、三味線から栫へて行く泣き方と異って、笑ひ方は特に難しいものとされてゐる。そして余程肚の強い太夫であければ、笑ひの技巧は出来ないものである。今日は源太夫お得意の笑ひをふんだんに聞ける「朝顔」の宿屋を送る。
( 何國にも 暫しは旅と綴りけん 影も淋しき奥の間へ)
只今のところは宿屋の段のマクラである。これから駒澤の昔の恋人深雪 今は落ちぶれてこの島田の宿で琴唄をうたって恋人との巡り逢ひを待ってゐる盲の朝顔を 呼んで「露のひぬ間−」といふ朝顔の歌を聞くところになる。この切場の前に「笑薬の段」といふ大へん面白い立端場がある。駒澤の同役岩代多喜太は隙あらば駒澤を亡きものとしようとして、萩の祐仙といふ医者と共謀して しびれ薬をのまして 殺さうとするが、宿屋の亭主徳右エ門の機転で しびれ薬を投げ込んだ茶の湯が 笑ひ薬の入ったものとすり替へられてゐるので これを毒味した祐仙が笑ひころげて 岩代らの悪企みが破れるといふところである。
祐仙の笑ひは自分が可笑しくて笑ふといふのでなく 薬の力で自然に笑へてくるので 本人はその原因を知らないといふところに一入可笑味があるもので 源太夫の笑ひの中に他人の追随を許さない実力を鑑賞されたい。では遡って「笑薬の段」
( 始終窺ふ徳右エ門... ...一服呑んでおやり下されまいか。)
次の「エみの裏流かゝれしとも知らぬ手前のしかつべらしく」で人形の舞台では待合せとなつて祐仙の人形がお茶の手前を見せる。こゝで人形がしかつめらしく 方式に従った所作をするので 後の笑ひが一層面白くなる。
( ヤ、それは風流なる心がけ... ...そつと解毒を先へ呑み)
毒味を終った祐仙は「雫も残さず呑みおはり 徳右エ門、チョト それへ」と促すところがあるが こゝでも舞台では待合せになりまして 岩代から慇懃に大太刀を借用に及んで「これへ直れ」と束頭へ手をかけて意気込みますあたりから 薬の利き目があらはれて笑ひがこみあげて来る。
( さあらぬ体にて件の薄茶... ...ハゝゝハゝゝアゝ苦しい苦しい)
祐仙のかしらは「祐仙かしら」といふ医者らしく取済した中におかしみのある特殊かしらを用ひ、座頭役の人形遣ひがつかふ。このやうな風貌の人形が 時には取済し 時には正体なく笑ひころげる図を想像されたい
( イヒゝゝハゝゝ亭主\/... ...ハゝゝゝ迯て行く) (大西)
(躄仇討) 扨て 「箱根霊験躄仇討」は今から百六十五年ほど前の享和元年道頓堀東の芝居のために司馬芝叟が書卸したものである。兄と妻の仇を尋ねる飯沼勝五郎は諸所を流浪する内に躄となつて、非人とまで零落して居るが、箱根の阿弥陀寺の法会で、目指す仇の瀧口上野の安否が知れるかも知れないと、可弱い妻の初花に躄車を引かして 漸くこゝへ辿りついたところから、この浄るりは始る。
( 忠孝の身にも… …やう\/庭に引止め )
この次に「こゝら当りは山家ゆゑ 紅葉のあるに雪が降る」と初花がいふ詞は、箱根の風趣をよく現はした有名な台詞である。
( 非人施行と書いた札… …わりや又何が可笑ぞい)
ここの泣き上戸と 怒り上戸が争ふところは源太夫の巧みな浄るりで、実に微笑しくなって来る。歌舞伎では、三人の非人が薄ぎたない着物をぞろりと着崩してもつれ合ふところは余りよい感じがしないが、人形の舞台ではさういふ感じは少しも起らない。
( こんな結構な法事する人さへ… …こりや叶はぬと逃げて行く)
茲で 正面の障子が開かれると、尋ね求める瀧口上野が、大きな火鉢の前に銀の煙管を突いた形で控へてゐる。勝五郎と初花は尋常に勝負々々ち詰寄るが、勝五郎は足腰の立たぬ躄である。かねて初花に思ひを寄せてゐる上野は我に従へと迫り、あまつさへ姑早蕨に猿くつわをはめ、後手に縛り上げて引出して来るので 夫と母の命を助ける為、上野に連れられて行く。
もう妻は亡きものと夫と姑は回向して居るところへ、初花が再び姿をあらはすので、仇へ一太刀も報はず おめ\/戻って来たと勝五郎は責めるが 妻は夫の病気を治すため、残った願を満たす為 戻って来たと、岩をかけ登って、瀧に降り立ち、権現様納受ましませと、一心に念じる結果、不思議に夫の足が立つ。「箱根権現」といふ外題はここから生れたのである。
ここへ奴筆助が駈戻って来て、初花が上野の為に殺されたことを告げる。ここで初めて、先程の初花は、初花の幽霊であつたことが判る。貞節といはうか、女の執念といはうか、夫の病気を治さん為、無事に仇を討たん為、怖ろしい女の一念を主題にしてゐるのが、この浄るりである。立派に足の立つた勝五郎に、先刻の泣き上戸と怒り上戸の非人が切ってかゝるが、 物の見事に追い拂はれる。これから目出度く仇討の本懐を遂げる期待をつなぐ段切になる。
( 追ふも無益と勝五郎… …箱根をさして)
躄の瀧の段の中で
「ここらあたりは 山家ゆえ」
といふ文句で おなじみのもの。
飯沼勝五郎は 兄の三平の妻の初花は 父の敵の瀧口上野をうつため流浪中、因果にも足な元となり、非人同様の暮しをして居る。
こゝの心ばかりは 勝五郎といふ節は 滲害といって、浄るりの片輪ものには しば\/出て来る特種なものである。
源太夫は口捌きがよいから 解説するまでもなく、聞いて居て、よく分かって貰える。
仇の上野は 二人が非人になってゐるのを知って 二人を引きよせる為、わざと箱根の阿弥陀寺で非人施行の大振舞をやった。集まって来た乞食の中から 酔拂いの所謂三人上戸、怒り泣き笑ひが出て来る。三人上戸は「源平布引瀧」の鳥羽離宮の段と同様なゆき方であるが、布引は侍、いざりは乞食であるから、気品のないのが特長である。
笑ひ怒り泣きの 交錯した言葉のやりとり、源太夫は こんなものは 実に旨い。しかしむつかしい上に 乞食が多勢舞台へ出るから 見た眼が汚くその上、上野の言葉が猥雑だから、近頃浄るりでも歌舞伎でも 余りやらない。
正面の障子が開くと敵上野が火鉢にかかって二人を見下して居る。勝五郎は敵を目の前に見乍ら足腰がたゝぬ為 無念の涙をのむ。上野は、その上母の早蕨を縛りつけて引き出し けねて思ひをよせてゐた初花に おのれに従え、さもなくば 母を刺し殺すと強迫する。
身の大難に初花が と言う浄るりの当て場があり、結局初花は上野に従うてゆく。勝五郎と母は、初花が 油断を見出してきつと敵を討ってくる事を期待してゐると 間も無く初花が帰って来る 女程実におそろしき物はなしといふ字合がある。実は初花は既に殺されて 今帰ったのはその亡霊であり、勝五郎の足の立つよう自分の命を捧げて百日の祈願をした。今日がその満願の日で最後の祈りをする為だと瀧壷へ入る。この辺りは「金比羅利生記」の志渡寺と似たところがある。奴の筆助が駈けもどり 初花が殺された事を伝える。と又 先程の乞食共が戻って来まして勝五郎に切ってかゝるが、初花の一心が届いて権現の語利益で足が立ち、見事に二人を追拂う。
段切りは例によって三味線が縦横に活躍して勝市の健腕が偲ばれる。源太夫の十八番は「赤垣」「本下」「弁慶」「油屋」「笑ひ薬」「帯屋」それからこの「躄」などであった。
(木村)
(尼ヶ崎) 「尼ヶ崎」のレコードは 六枚十二面で 「残る蕾の花一つ」のマクラから、操のクドキまでを収めてあるが、今日は十次郎と許婚の初菊の件を中心に、 鎧の袖 しぼり兼ねたるばかりなり までをつづけて送る。三味線はレベルに明記して居ないが、安原仙三氏は 豊沢仙糸ではないかと話して居る。
( 残る蕾… …しぼり兼ねたるばかりなり)
武智光秀が主君小田春永を本能寺で討取ったので、光秀の母、皐月は我子の不義を憤って尼ヶ崎の片ほとりへ隠居して 浮世との交渉を断ってゐる。そこへ光秀の一子十次郎が初陣の挨拶に来る。これは討死の覚悟の暇乞いであることを察して、折からご機嫌伺いに来合せてゐる許婚の初菊と夫婦の盃をさせる。こゝまでを前回に放送した。皐月も十次郎も母の操も目出度い\/と嫁の心を励すが、初菊の名残りはいや増すばかりである。この喜びと悲しみの最中へ、戦場が近いと見えて鉦や陣太鼓の音が風にのって送られて来るところから始まる。
( 哀れを爰に… …婆々が心の切なさを)
十次郎を送り出した三人の中へ、風呂の湯が沸いたと僧侶が現はれるが、これは真柴久吉の假の姿で、この段の端場「夕顔棚の段」のところで、武智方の四方天但馬守に追はれて来たのであるが、それとも知らない皐月が一夜の宿を許す。
次の「入るや月洩る片廂」で文楽の舞台であると、屋台が上手へ引かれて、下手の敷畳を充分に見せて、そこへ光秀が現はれる。
( 推慮しやとばかり… …悟られじと)
只今の「顕はれ出でたる武智光秀」の後の豪壮な大ノリの三味線で 光秀の人形は左手を頭上にかざして、斜に屋台を見込んだ立見得をする。
( 差足抜足… …気丈の手負)
三味線の仙糸はどちらかといふと、世話物の名手であるが、只今の光秀の出などは非力ながら充分の間をもつと大きく表現してゐる。これからのクドキは、繊細な手法で面白く聞かせてゐる。
( 妻は涙に… …涙に誠あらはせり) (大西)
(柳) この「三十三間堂棟木の由来」 と言ふ浄瑠璃は、京の三十三間堂を建てる為に熊野谷の柳を伐つて棟木にするのだが、それを知った柳の精お柳が自分のはかない運命を悲しんで、涙ながらに夫平太郎に向ってそれとなく別れを告げる。実はお柳は昔、季仲の放った鷹の足緒が自分の身体である柳の枝にひっかゝつたので、あはや伐倒されやうとするが、通りかゝつた平太郎の一矢で鷹の足緒を射切ってもらって、辛くも命助かった柳の古木の精ですが、恩報じの為に假に人間の姿をして平太郎の妻になつて居たのである。
源太夫のあの美声が充分に楽しめる所である。絃は名人仙糸。この仙糸は晩年恵まれない人であったが、世話事、景事にかけては第一級の三味線弾きであった。
この人が六十年間に弾いた太夫は 大島太夫をはじめ 春子太夫 土佐太夫 弥太夫 源太夫等沢山あるが、斉藤挙三の書かれたものには、仙糸は源太夫を一番高く評価して居たとある。それにつけても、源太夫にせめて仙糸の死んだ年までは生きてゐてもらひたかったと惜しまれてならない。
お柳の姿がかうして消えるので、後に残された祖母と父と子は、手を取り合って前後不覚に泣き沈むが、涙のうちに平太郎は、我が子緑丸と一緒に妻のお柳に逢はうと熊野へ急ぐ。熊野では既に伐り倒された柳が多くの人夫によって引っぱられてゐる。有名な木やり音頭が聞こえて来る。
思ふようにはレコードに這入って居ないが、それでも源太夫の美声と仙糸の鮮やかな三味線は、どうやら味はって頂けたかと思ふ。今迄多勢の人夫がひいても しやくつても動かなかった柳の大木が 涙乍らに引く柳の実子緑丸の手によってするすると動き出す。
源太夫の三十三間堂棟木由来のレコードは 残念乍ら二枚しか吹込まれて居ない。
(吉永)