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名人のおもかげ資料 五世(四世)豊澤仙糸

      

使われた音源 (管理人加筆分)
ビクター   恋女房染分手綱 三吉愁嘆の段 二世豊竹つばめ太夫 四世豊澤仙糸
ニッポノホン 義経千本桜 千本櫻道行 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸    音源  
ニッポノホン 仮名手本忠臣蔵 八段目道行 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸
コロンビア  近頃河原達引 堀川猿廻の段 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸  歴史的音源へ
ニッポノホン 箱根霊験躄仇討 三人上戸 七世竹本源太夫 四世豊澤仙糸   音源
ビクター   心中天網島 新地茶屋の段 二世豊竹つばめ太夫 四世豊澤仙糸 歴史的音源へ
ビクター   一谷嫩軍記  一ノ谷組打の段 二世豊竹つばめ太夫 四世豊澤仙糸
?タイヘイ   菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 二世豊竹つばめ太夫 四世豊澤仙糸

     

放送記録
227回 昭和26年7月27日 解説:大西 五世仙糸の「重の井子別れ」
287回 昭和26年12月10日 解説:大西 五世仙糸の「千本櫻道行」
297回 昭和26年12月24日 解説:木村 五世仙糸の「忠臣蔵道行」
347回 昭和27年3月18日 解説:吉永 五世仙糸の「堀川」と「躄」
394回 昭和27年6月26日 解説:大西 五世仙糸の「河庄」
402回 昭和27年7月11日 解説:大西 五世仙糸の「河庄」
420回 昭和27年8月25日 解説:木村 五世仙糸の「組討」と「いろは送り」

         

 五世豊澤仙糸は本名を中井庄吉と言って 明治九年四月廿六日大阪の久宝寺橋筋で生れた。八才の時 六世豊沢広助(後の絃阿彌)の門に入り 豊沢小作を名乗ったが、明治廿六年六月 豊沢猿治郎を襲名 更に大正三年正月五世豊沢仙糸をつぐ。始めは彦六系統に勤めて居たが 大正三年二月から御霊文楽座に転じ 伊達太夫(六世土佐)、六世彌太夫、七世源太夫を弾いた。文楽が四つ橋に移ってからは 専ら後進の指導に当り 昭和廿一年四月十一日寓居で七十一才で歿。

(仙糸)五世豊澤仙糸が京阪沿線守口の寓居で淋しく息を引きとってから 六年の月日は忽ち流れて 此の四月十一日には其の七周忌を迎へようとして居る。あの忌はしい戦争から引續いての終戦後の耐乏生活は 生活力のない老人達を次々と枯木の様に倒して行ったが 中でも文楽座の三業の人々にとっては 一層みじめなものであった。すぐれた太夫や 三味線弾きや そして人形遣ひ等が戦後の犠牲となつて 苦しい生活の中に死んで行った。殆んどと言ってよい程 悲惨などん底生活に陥って いたましい最後を遂げて居る。荒事の名人 吉田玉蔵も病気になって以来 苦しい生活に堪へかねて遂に首くくって果てたし ぼけやつし二枚目の名人吉田栄三も空襲で家を焼かれ猛火の中を年老ひた妻の手をひいて 付近の小学校に逃げ込み、一つのにぎり飯に目をしょぼつかせて喜んでゐたが 遂に大和小泉の草田舎で愛弟子にさへ見とられずに淋しく息をひきとった。
舞台の上では 素晴らしい芸を見せてくれたこれらの名人も浮世の風に吹かれては一とたまりもない。皆あつけなく散って行った。
三味線の名人五世豊沢仙糸も 此の悲惨な嵐の中に消えて行った一人である。戦争がはげしくなって好きな酒も呑めず 一町も續く行列の人の中に 七十の老人が一杯の酒を飲む為にいら\/し乍ら並んで居たのである。
文楽からの収入の絶たれた仙糸は 賣食ひのたけのこ生活をする外なかった。何時の間にか箪笥の衣類は 一枚へり二枚へつて行き しまひには何もなくなって居た。其の上息子は孫を置いてどこかへ行ってしまった。而もこの仙糸が栄養失調で息を引とった時 お坊さんもやとへず 近所の人々の好意で やっと形ばかりの葬式が出来たといふ。文楽関係者は勿論、現に残って居る唯一の弟子と言ってもよい仙松さへも 知らなかった。それが故人仙糸の意志なのか 家人のやりっぱなしからなのか解らないが、この仙糸の芸を高く買って居た山城少掾は 仙糸の死をずっと後になって聞かれ「あれだけの人が死んで新聞に一行も書かれず 仲間にも知られなかったとは 仙糸さんも何んと云ふ不運な方でせう」と知人に書き送って居た。
この仙糸の「良弁杉」における「桜の宮」の美しい至芸を知り 又新地茶屋や楼門の素晴らしくよかった事を知ってゐるだけに この最期を思ふ時憤りの心がおのづと湧いて 悲憤の涙を禁じ得ない。
どうしてこんな名人が 貧しい中にも顧みられず せゝこましい町の陋屋に死んで行ったのであろう。確かに仙糸は非常な気むづかしやで誰とも妥協の出来ない人であった。彦六では大島 春子 雛と 又 大正三年文楽座に這入ってからは 土佐の伊達六世彌太夫 と太夫を次々と変へたが、これは皆芸術上の問題で 面白くなくなって別れたと聞いて居る。三味線の方から暇を貰ふ方で 太夫に対しては確かによい女房ではなかったと思ふ。自分の主張を決して曲げないし、妥協もしないから文楽に這入っても全然文楽系の三味線を無視して 團平系の三味線に終始した。この非妥協的な性格は芸の上ばかりでなく、日常生活にも及んだので どうしても孤独の生活になってしまった。弟子が来ても半年も續かない。肝心の奥さんとも家族とも一つ家にありながら 思ひ\/の生活をして居た。と言っても仙糸が決して家を外にして女と遊んだと言ふのではない。
却って仙糸は「女はきたない」と言って嫌って居たと伝へられて居る。斯うして仙糸の性格がます\/冷たくかたくなになって行き 自分の殻にしっかりと閉じ篭るやうになってしまった。仙糸は又 よく家を引越した。二三年居たかと思ふと 何時の間にやらまた宿替をした。それが貧乏をする原因であったかと思ふ。その間にあって七世源太夫とだけはすっかり意気が投合した。源太夫も仙糸を高く買ってゐたので この時が仙糸の順調な時機でこのコンビの最初に吹込んだ「國姓爺合戦」の楼門は傑作中の傑作である。しかしこのコンビも源太夫の死によって解消し、又もとの一人ぼっちにかへつた。道行のしんになったり 若い人の三味線を弾いたりして 孤独の道を歩いて居た。音色の美しい間拍子の良い人であったが それだけに腕の弱い人であった。肚の強い太夫にかゝると持ちこたへられず所謂激しい叩きの出来ない人で、肚の強い太夫にぐん\/つっ込んで来られると、忽ちマクレてしまった。そして自分の三味線の風をしっかりと守って弾く 太夫にあはせる事の出来ぬ人であったから 自分を呑込んでくれぬ太夫にかゝつては お前はお前 おれはおれで みぢめなものであった。
彼は稽古に来る人には相手かまはず 遠慮なくびし\/直したし、見込みのない人には 無駄な事だと見切りをつけて 少しも稽古をつけてやらなかったので 長く續く弟子は殆んどなかった。気に入らないとさっさと止める。やりつぱなしでも ついて来るものは来い 来ないものはそのまゝと言う風であった。弟子を引立て良い後継者を作る事に総てを犠牲にする人と、弟子は放ちらかしで 自分の道ばかりを深く究めて行く人と二つあるが、仙糸は後者の自分ばかりを究めて行く人であった。これが彼の晩年を不幸にした原因であったかと思ふ。
さて仙糸の最後を飾った出来事の話、昭和廿年七月二十三日と廿四日の両日 二千五百機の大空襲下にあった京都四條の某亭で古靱太夫(今の山城少掾)を聴く会が開かれた。この會はさゝやかな集ひとは云へ あの空襲下にあつても古典を守り続ける識者のあつた事を知る。歴史的に記録されてよい会合であったと思ふが、大広間がいつの間にか 芸道に飢えてゐる熱心な聴衆で一杯になつてゐた。皆浄瑠璃を愛好し 心を浄められようとする美しい集ひで 奈良大阪は勿論 遠く姫路からも このことを伝へ聞いてかけつけた。古靱太夫の語りものは第一日目が「小春冶兵エ」 新地茶屋と「加賀見山」の長局、二日目が紙冶内と「忠臣講釈」の七つ目であったが、相三味線の清六が 病気で急に仙糸が代役する事になった。他に代る人がなかったとも思はれるが、これは古靱太夫の希望にもよろうし 又会の責任者が特にこの不遇の名人を起用して花を持たせたとも考へられる。そんな関係でこの二日とも全部仙糸が弾いたが、語る中に古靱も仙糸も戦争の恐怖など眼中になく 私ども聴衆もいつしか空襲のサイレンも気にならず このまゝどかんとやられても 本望だとまで聴き入って居た。こゝで三味線の仙糸は 紙冶の茶屋で「魂抜けてとぼ\/うか\/身を焦がす」のメリヤスにかゝる間拍子や 足取りの変化の美しさを実に見事に弾き、太夫と三味線が完全に一つにとけあって 私達の心を楽しい恍惚境にひき入れてくれた。(吉永)

道八 新左エ門 老兵衛、仙糸といふ近年亡くなった文楽の三味線の名手達のうちで特に仙糸の姿が私はなつかしく思ひ出される。四つ橋文楽座が戦争のために焼けてから朝日会館を根城に雄々しく起上った時、だん\/衰へて行く身体をただこの道のために鞭うって 大阪の近郊から通って行った仙糸師匠の姿が 今も目の前にまざ\/と思ひ浮べることが出来る。その後身体のおとろへがひどくなり、昭和二十一年二月四つ橋に文楽座が再建されたにも拘らず これに出演する喜びももたず、その年の四月十一日に亡くなっている。最後の舞台はその前年十月の会館公演で「忠臣蔵」八つ目の道行を弾いた時である。
仙糸は三味線弾きとしては腕の強い人とはいへない。むしろ非力の名手であった。どこにも無理なところのない、気持ちのよい洗い上げた芸の持ち主であり、この道でいふ「模様」の弾ける人であつた。一つの役を勤めるのに三通りぐらひの朱本を用意してこれに当ったといふから 餘程の勉強家だつたことが判る。特に世話物にすぐれてゐたので、同じく世話物の名手であった土佐太夫や弥太夫と組んでゐた頃にはどんな立派な浄瑠璃を聞かせてゐたであろうかと、浄瑠璃好きの人などいろ\/と楽しい想像をえがかれるところであろう。又道行、景事ものがよかった人で、こういうものでは素晴らしい三味線を聞かせてゐた植畑の師匠 三世團平がシンを弾く時は必ず仙糸が選ばれて二枚目を勤めて居たし、又仙糸がつとめた道行物も大へん評判をとつて居る。最後の舞台が「忠臣蔵」の八つ目 旅路の嫁入だつたといふことは私どもに懐しい思ひ出を残してくれた。日ごろは非常に無口で 芸談などあくびにも出さない人であつたが 酒を飲むと 上機嫌になって面白い芸談が飛出す。「良弁杉由来」の櫻の宮−良弁上人の母、渚の方が鷲にさらはれた吾子を求めて 櫻の宮まで狂ひさまよふ浄瑠璃は仙糸のお得意のものであった。仙糸が酒でよい機嫌になつた時を見計って
「お師匠はん、櫻の宮は結構だんナ」
と水をかけると
「そうか」
「櫻の宮はどこがむづかしおまつしやろ」
「渚の方が正気にもどるとこ、わしはあこがどうしても弾けんネ」
と答へたといふことである。人形の舞台を見てゐると 柳の木にとりついて淀川の流れを見下ろしてゐる時、つヮと正気になるのであるが、こゝの三味線がむづかしい 仙糸の「櫻の宮」は傑作だ\/といはれてゐる時でも 仙糸は渚の正気にもどる瞬間を弾くために心を砕いてゐたのである。
昭和十二、三年頃の事である。つばめ太夫 今日の綱太夫、それに相三味線の弥七などと「阿古屋の琴責」を吹込むために仙糸が東京へ行つた所 宿で酒がはづんだ揚句「みづてん芸者を買ひにゆかうやないか それがよい\/」と酒の力が手伝って霞町へ繰込んだ。その時仙糸は
「わしは女はどうでもよいので 誰か歌ふてみんか」
といふことになり、居合せた十六七の女の子が三味線をとって弾き出した処
「この子 裏ばちがつかへるが−」
と大へん御気に召したといふことである。
六十前後の老人が 若いものゝ酒の勢ひにまきぞえを喰って、芸者買ひの悪戯の入口迄行っても 最期はやっぱり芸の話に落ちついたところが 名人らしい逸話だと思ふ。
当の仙糸も裏ばちの上手な人で これを非力の三味線弾きの卑怯なわざといふ人もあるが、うまく弾くと非常に具合のよい、面白いものである。(大西)

仙糸の師匠の広助は 跡に名庭絃阿弥になつた人である。非常に稽古の八釜しい人で 八才の子供弟子の彼に対しても何責しない、随分泣かされたものであるが 勿論天分があったからでもあろうが 之でうんと腕を上げた。彼は十六の年齢に 望まれて有名な春子太夫を弾いた事さえある。
仙糸は堀江の芝居へ出た始めから大序を飛ばして序切りの役が当って居る。そして その后ずっと雛太夫の相三味線であった。今と違って三味線弾の大勢居た時代である。以て彼の腕前を想像する事が出来る。
大正三年に文楽座へ入座し 之も堀江から来た後に土佐太夫になった伊達太夫の十種香を弾いた。 此時のツレは清六の徳太郎、重造の浅造であった。しかし伊達太夫とはただの三芝居で別れたが、その后 改めて 六代目弥太夫の相三味線として入座し、弥太夫の死后は七世源太夫に望まれて 源太夫が亡くなる迄弾いて居た。
その后は若手の指導を道行専門という形であつた。世間では道行の仙糸とさえいつた。
事実柔い 間のよい 小発の廻る そしてきれいな音色で この道でいう模様の弾ける味の有る三味線であった。元来無口で 人つきあいの悪い方で酒が唯一の慰安であったが、戦時中の乾燥状態で すっかり参ってしまったのは誠に気の毒である。焼かれこそしなかったが疎開した荷物が、いつの間にか消えてしまったのも 気の毒だ。それでがっかりした彼は、最後の朝日会館での道行も 実はよい出来ではなかった。
(木村)

人形浄瑠璃を形づくってゐる太夫、三味線、人形を総稱して、三業といって居るが、その三業の力がそれ\/に充実してゐて、互ひに相拮抗してゐる時こそ、人形浄瑠璃の面白さが十二分に発揮されるものだと思ふ。しかし、三業の力倆には起伏があつて時として人形偏重の時代があるかと思ふと 三味線弾が過剰となる時期もある。吾々が知ってゐる大正期以後に於ても、一時三味線弾の頭数が太夫に比して非常に多く、番附面にギッシリ目白押しに列んでゐた時もあつた。そして古老といはれ、名手といはれた人さへ、適当な相手の太夫がなくて、休場を申渡されなければ、道行物か所作事の引立役に列ばされてゐるのが精々といつた時代があつたのである。可なりすぐれた芸をもった人が、冷遇をうけてゐる舞台を目の辺りに見て ツイ義憤を感じたことは 一再ではない。鶴沢道八 三世豊沢新左エ門など、過去の功績にむくひる扱ひをうけることなく逝くなった人々であり、五世豊沢仙糸の晩年もその例外ではなかった。小作といつたはじめから猿二郎となり、仙糸を襲名して立派な腕を磨いて来た六十余年の芸歴の上で 仙糸が相三味線をつとめた太夫は三世大島太夫 二世春子太夫 六世土佐太夫 六世弥太夫 七世源太夫といふいづれも錚々たるものばかりであつたが まづ源太夫と組んだ時代を最後の華として、晩年は専ら後進の指導に当ってゐた。
また家庭的にも恵まれてゐたといふ噂は 聞いてゐない。その亡くなった時その戒名を選ぶのに 遺族は簡単に芸名からとつて、釋ノ仙糸としようとしたのを 芸名はその生前の芸を共に斯道に伝へるべきもの、さう軽率に冥途へもつてゆかれてはたまらぬと、止める人があって 漸々釋ノ絃庄と贈られたといふことを聞いた。絃とは三味線の絃の字、庄は本名の中井庄吉からとつた。
楽屋入りの姿など粗末であったことから推して 経済も豊かでなかったのだろう。三味線弾といふものは素人衆の稽古などができて 三業の中でも一番豊かな生活を営めるように思ふが、仙糸は生来の正直と変屈のためにその稽古屋を嫌って一生赤貧に甘んじてゐたのではなかろうか。
こんなお話がある。東京のある素人義太夫が大金を出して、月の半分を抱へようとした時
「あんな下手な義太夫が 半月ぐらひで直りまつかいな」と、一度弾いたまゝ さつさと大阪へ逃げて帰ったといふことである。
仙糸は 八才の時から 後に名庭絃阿弥となった六世広助を師と仰ぎ、又その弟子で古実家の二世富助と 植畑の師匠といはれた三世團平に多くの感化をうけたので、芸の仕込みは正しく、最後迄芸はくづれてゐなかったといふ、そして「風」− 浄瑠璃風格のやかましいものほどよく弾いた。
ある時は、「壷坂」を弾いてその段切の出来がわるかった時、ある人がその不出来を指摘すると「どこがわるおましたか。「壷坂」にならなかった所があつたらいつてくれやす。全体として「壷坂」に聞えたら私は満足します。どうせ、力のない人間やさかい。部分的には拙いところもおますやろが」と答へたといふことである。「風」を大切にする三味線、これは当然のことながら、それが簡単には出来ないものである。
(大西)

(河庄) 近松門左エ門の「心中天ノ網島」は 享保五年(一七二十年)に竹本座で初演された。それから五十八年経った安永五年(一七七八年)近松半二らになつて改作の筆が加へられて、北の新地 西の芝居に再演された。
これが「心中紙屋治兵衛」である。これによると原作の中の巻に相当する紙屋内(一般に「炬燵」と呼ぶ)の段などは 大分改作者の手が入って居るが、上の巻の新地茶屋の段は、端場の口三味線の件は兎も角として、切場になると、殆んど原作の通りで、ただ語りものとして文章がなだらかにしてあるところが変っている。
この改作の新地茶屋を語ったのが、三世竹本政太夫で、この人は変り目の名人といはれて居たから、曲中の人物の人情の変り目が大へんうまかったのである。
政太夫は前名と中太夫と言ったので、それを「中太夫の四季変り」といひ、この浄瑠璃は、中太夫、すなはち三世政太夫の語り口を目標にして修行せねばならないと聞いて居る。天満の紙屋の主、治兵エは おさんといふ貞淑な女房とのあひだに勘太郎、お末といふ六ツと四ツになる子供の親であつたが、三年以来 北の新地の紀の國屋小春といふ女にうつゝになてて家業を捨てゝ顧みようとしない。
治兵エの兄の粉屋の孫右エ門はこれを心配して、或る夜、蔵屋敷の侍になりすまして小春に逢ひ、その心底を見届けると同時に、男の事を断念さそうと思って居たところが、物思ひに沈んだ女の口から思ひがけない心を聞かされる。わたし一人を頼みの母がある。私が死んだ後では、袖乞い非人の餓死でもしようかとそれのみ悲しい。水臭い女と思はれるのも恥しいが、その恥すてて死にともないのが第一 死なずと事のすむよう、どうぞ分別をしてくれと、かう思ひがけない詞を聞かされる。それは後で判ることであるが、治兵エの女房が、事を分けて、夫と切れてくれと頼んでやつた女同志の義理をたてゝ、小春の心にもない愛想づかしであった。
このやうな女の心の表裏、うら表を語るために政太夫の語り目の巧みな演出が役立ったのであろう。いや、そればかりではなく、孫右エ門の町人としての本当の立場と、假の姿の侍との変り目。また普通の遊女と思い込んでゐた小春の眞情を知って涙を誘はれる変り目、また折からその表へさまよひ来た治兵エが、女の不貞を知って怒りの激情を押へかねた変り目、そしてこれらの人物から人物へ移る変り目、すべてかうした変り目が語り手にとつては誠にむづかしいと同時に 聴き手の側に於ても非常に楽しみな浄瑠璃なのである。
仙糸は世話物の三味線としては、一寸類のない名手であった。美しい、そして繊細な三味線で、情景なり、人物の心を巧みに弾き分けたが、これは巧んでひけるものではない。この新地茶屋につづく紙屋内の段では、女房おさんが、女と手の切れた筈の夫 治兵エが、小春日和のひる日中、炬燵へ入ったうたゝ寝の枕ハ未練らしい涙を浮べてねるのを見て恨みごとをいふ件がある
「えゝあんまりぢやぞえ治兵エさん、それほど名残が惜しいなら誓詞書かぬがよござんす」と これな有名なクドキである。このクドキの中で「それほど心残りなら」のところに、美しい合の手がある。之を或る先輩の三味線ひきが、殆んど常間のやうな弾き方をしたのを聞いた仙糸が 「私はあないに弾けまへん」とただ一言いつたといふ。当の仙糸は この合の手をなんとも 口ではいひあらはせないほど面白い緩急をつけて弾いている。
同じような面白さが、これからお送りする新地茶屋の随所へ聞かれるが、最初の弾き出しのメリヤスが それである。一般にゆったりとした間で弾くところを 仙糸はハッハッと掛声を入れて打つ、拳の間を聞かせて居る。あちらの座敷、こちらの二階から さんざめきの声が聞えてゐるやうといふ廓の情景が自ら浮んで来るところに御注意ねがひたい。

(チンレン、チンツン... 煮賣屋で小春が沙汰 ...いだきふせり泣き)

只今のチンレン、チンツン の合の手のおもしろさは「河庄」といふと、先代鴈治郎の花道を思ひ浮べられる方もあろう。例の日本一の美しい顔を頬かむりにつつんで、魂はもうどこかへ飛んでしまった人間、少し仰向き加減の懐手で 花道をウツラウツラと出て来るが、文楽の人形では先代、栄三などは、小春が河庄かたへ来てゐることを知った心で、少し急ぎ気味で出て来る。しかし私どもは、この人形の出よりオクリがすんで「天満に...」と山城少掾が、半眼に開いた目を孤空に注いで口を開く瞬間をたのしいものだと思ふ。

( 奥には客が大欠伸...  ...請出すことも叶はず)

只今の小春のサハリは繁太夫節である。今日行はれてゐる近松物で このやうな繁太夫節がとりいれられてゐるものは「平家女護島」の鬼界ヶ島で、千鳥 のクドキの「海士の身なれば一里や二里の海」といふところ、最近綱太夫や彌七で復活上演された「心中重井筒」の七軒町で「豆腐とて来い、八百屋へ走れ」といふところがあつた。仙糸の三味線の見事なところを充分におききとり願いたい。

( 南の元の親と...  ...内には小春が喞ち泣き)

只今の「歯ぎりぎり\/ 口やし涙」といふところは 治兵エの怒りの激情を語るところで、人形は右で腕まくりの形で一見極ってから トン\/\/と足拍子を入れて向ふへまはるが、太夫はすぐにかはってそれとも知らぬ小春の心にもない詞につづく。(大西)

(千本桜道行)恋と忠義はいづれが重い、とは冒頭の文句であるが、これはまことに巧いことをいつたものである。浄瑠璃中でも特に名作といはれいるこの「義太夫千本桜」の作者は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳らであるが、この道行の段が、誰の筆になるものであろう。誰かが「恋と忠義」と書出した時には一緒に仕事をしてゐた他の二人も恐らく、ハタと膝を打って、会心の笑みを浮べたことと思ふ。
「千本桜」は延享四年(一七四八年)竹本座で初演された。知盛、維盛、教経 といふ
平家の大将を 史実とは全く逆にまだこの世に生きてゐるといふことにして、これに義経の思ひもの静御前に忠臣の佐藤忠信 それから今一人忠信の姿をよそほつてゐる狐をからませて「千本桜」といふ題名が示してゐるやうな豪華な絵巻物を繰りひろげて居る。
法皇より 平家追討の恩賞として賜った初音の鼓は、藤原の朝方の策略から 兄頼朝を討てとの院宣なりと、義経の手に渡される。一方兄からは義経に討手がかゝるので、義経はこれを逃れようとする時 静が跡を慕って行を共にしようとするので、止むを得ず立木にしばって 右の鼓と鐘とを残してゆく。すると討つ手の(土佐坊の家来)逸見ノ藤太が来て、捕へようとするところを故郷出羽へ帰った筈の忠信が現はれて救ふので、義経は、鎧と自分の名を忠信に与へて別れる。これが大序から二段目稲荷の森の段までの荒筋である。この忠信は実は初音の鼓の皮にしられた親狐を慕ふ子狐の化身である。
道行は稲荷の森からつづくところで、義経の忍んでゐるといふ噂のある吉野山へ志す静と忠信との道行となって居る。レコードはこれから珍しい万才の件になる。といふのはこゝは今日の文楽でもよく省かれるところである。

( おかしがらすの一節に...  ...君と敬ひ奉る)

浄瑠璃の道行といへば沢山あるが、とりわけこの「千本桜」の道行は文章も節も非常によく出来て居る。只今の「谷の鶯」の前後はいつ聞いても陶然となるところ。

( 静は鼓を...  ...互に片身と取収め)

お聞きの通り この美しい三味線は五世豊沢仙糸である。 仙糸の芸質は 時代ものといふよりも 寧ろ世話物に向く人で、この方面に高く評價されて居る。又道行物 景事物に優れた音締めを聞かせてくれたが、これは浄瑠璃の三味線で 特に大切な『模様』即ち情景が実にうまく弾けたからであろう。名人団平の弟子であった植畑の師匠(団平の三世)は同じやうに景事ものに優れた腕を示して居たが、この団平が 景事もののシンを弾く時には必ずその二枚目には仙糸が選ばれて居た。かうして仙糸の芸にみがきがかけられたのである。この仙糸の最後の舞台が「忠臣蔵」の八ツ目、旅路の花嫁であったことは、私どもにいつまでも よき思ひ出となって居る。

( 思ひぞ出づる...  ...平家の強弓)

忠信の衣装に源氏車をおいているが、これは初演の時に 四段目を語った政太夫の紋所だつたといふ。この紋が源氏にゆかりがあるといふばかりでなく、今日では こうでないと忠信らしくないと思ふほど、われ\/には親しみのあるものになつてしまつた。只今の「君の御馬の矢表に駒をかへ立塞がる」の後をうけて静が「オゝ− その時に平家の方は名高き強弓」となる。こゝの仙糸の三味線の美しさはまた格別。曲はいよ\/段切に近くなって急調になるが、仙糸の撥も一入冴えて来る。

( 能登守範経と...  ...麓の里にぞつきにける)

(大西)

(忠臣蔵道行)この道行は「忠臣蔵」の八段目 即ちやかましい九段目山科の段の前後で 加古川本蔵の妻の戸無瀬が娘小浪を 許婚の大星力弥と結婚させる為 鎌倉から 東海道筋を上ってくる道中である。背影は富士の遠見 賑かな道中筋には立派な大名行列も通って居る。
伴をも連れぬ母子は淋しく しかし未来を楽しみつゝ歩んで来る。
レコードは 制作会社が四面に纏め上げる為 無理に あちら こちら省略がある。
浄瑠璃の源太夫も よく道行に合うた方である。充分に此人の三味線を鑑賞されたい。浄瑠璃よりも三味線で聞かす道行もの その三道行といわれた内でも 「千本櫻」や「妹背山」と較べて淋しいが、状景がよく出て居る。
 小石拾うて我夫と という人形の実感的な振りの有る處をカツトして 縁結びの呪文 じしきがんこうがかいれいにうにきう という妙なかくし文句の出て居るのも面白いと思ふ。流石に道行の仙糸と仙糸と云われた丈の事はある。十八番中の十八番の櫻の宮のシンを弾いて居た時は 二枚目に座って居た吉弥が、つい聞きほれてしまって 自分の手を忘れたという位である。道頓堀の弁天座で花菱屋を弾いて居た時 終り頃になると、仙糸の三味線を聞くので舞台の後へ 太夫も 三味線弾きも いつも間にか全部集って居たというエピソードがある。 (木村)

(重の井子別れ) 「恋女房染分手綱」は宝暦元年二月、竹本座に初演され、人形遣の名人 吉田丈三郎が吉田冠子といふ筆名で三好松洛と合作したもので、近松門左エ門の「丹波與作待夜の小室節」が原本になって居る。
丹波の藩主 由留木家の調姫はまだ十二才といふいたいけな年で、関東の入間家へ輿入れされることになつて、旅立ちの日になつて 東へゆくことはいやぢやとむづかるが、お供の中に混つてゐた十才ばかりの馬子が道中双六の遊びをお目にかけたので、お姫様も心が動いていよ\/出發といふことになる。ところが この馬子の父の與作はもと由留木家の家老の息で、現在お姫様の乳母をつとめてゐる重ノ井と昔 通じたことがあつて 与之助といふ子供をもうけたが、悪者のざん言でを飛出し近江の石部の者で馬追ひにまで落ちぶれて居る。この少年馬子の三吉は與之助であった。浅黄襦子の雁木の着付に 赤縮緬の鉄砲をつけ 黒襦子の胸当をかけてゐるといふのが人形でも歌舞伎でもお約束の三吉の衣装になつて居るが、月代をそつた小まつちやくれた言葉づかひの馬子が双六を教へるところを「道中双六」といふ
レコードはお姫様の御機嫌を直した御褒美に乳母重の井がお菓子とお銭三筋を与へて道中すがら用事があれば、お乳の人重の井と遭ふといやといつたところからつづく。

( 三吉つくづく聞きすまし...  ...つい死んでのけました)

侍を捨てた父と苦労をした有様が子供の口から訴へるやうに物語られるが、次の「夜は沓打ち 草履つくり」といふところで手拭を足の先にはさんで縄をなふ振りを見せてから、気をとり直して 身をそむける拍子に この手拭を肩にかけた姿が馬子らしいいなせな形になる。
又「百千色の憂涙」といふところは聞かせどころで 仙糸の繊細な絃の美しさが、ハッキリと聞かれる。

( 父様を尋ねに行き...  ...手を取つて引出す)

「父様母様 養ひませう 父様と一緒にゐて下され」といふ三吉の切なる願ひも 大名の御姫様の乳母といふ責任の位置の前に 重の井はこれをむげにしりぞける。馬子は泣く\/頬冠りして野ぞうを極めた姿で淋しく立上がる。しかしこの後の「式台の段箱に身を投げ伏して歎きしが」のところは封建的な手がせ 首かせにしばられた母が 制度の前に流す精一杯の涙である。

( 不便や三吉しく\/涙...  ...いただきながら涙声に)

これからお馴染の「坂は照る\/鈴鹿はくもる」と三吉がやるせない気持を押へて馬子唄をうたふ。「間の土山雨が降る」から「降る雨よりも」と段切りの文句にうつつてゆくところは、いつ聞いても楽しみなところ。

( 坂は照る\/...  ...中にしぐるゝ)

(大西)

(堀川) これは「そりや聞えませぬ傳兵エさん」で有名なお俊 伝兵エの浄瑠璃で、人を殺した伝兵エに どこ迄も女の操を立てぬくお俊の愛情に打たれた老母と小心な正直者の兄の與次郎とがお初徳兵エの祝言に事よせて 猿を廻せて二人を落してやる所で ノレンの向ふから ぴよこ\/と二匹の猿が出て来て ペコリと見物人に頭をさげると與次郎の「お猿はめでたや\/な」の唄につれて可愛く踊る。
文楽では 浅ぎの着物を着た徳兵エと赤い着物を着たお初の猿が、一人の人形遣の手によつて 指さき人形式に巧妙に操られてやんやと喜ばれる。こゝは文楽ではきまつて兵次が遣ふ。仙糸の鮮かな三味線を味って頂けたと思ふ。この辺りはもう完全に三味線と人形の持場であるが、源太夫が仙糸の絃で のびのびと語つて居る。
(吉永)

(組討) 「一谷嫩軍記」須磨の浦組討の段は序切の敦盛出陣につづく立端場で、二段目の切場に匹敵さる重い語り場とされて居る。都を捨てて須磨に立篭つた平家の一門に対して 経盛は福原に據つて搦手を固めて居たが、敦盛と王織姫とを祝言させ、敦盛が院の御胤であることをはじめて明した。そして一門と生死を倶にしようとする敦盛を説いて北嵯峨へ帰すことになつたが、味方敗北の報がもたらされて 経盛には主上の御船を守護すべき命令が下りたので、妻子に別れを告げず浜辺へ急ぐ。これを知った敦盛は 出陣の姿も雄々しく馬上で駈出し「父上の命に従ふは一の孝、兄上達一門残らず 骸をさらす必死の戦場、我一人都へ帰りてなに面目にながらへん」と討死の覚悟を語り、母藤の方から餞別に送られた袖を母衣として父の後を追ふのが、出陣の荒筋である。「組討」は「在る程に御船をはじめて一門皆々− 」と壮重な謡に始るが、このレコードは テーン、テーン、テーン、と須磨の浦間に打寄せる大波小波を聞かせるところから始り、「無官の太夫敦盛は− 」と爽かなヒバリ節につづく。仙糸の絃はこの三味線から実に見事にのつて居る。

( 無官の太夫敦盛は...  ...引返して勝負あれ)

海上に敦盛と熊谷とが剱を合す件は見事な三味線の手がつけられてゐるが、仙糸の撥は実によく弾きこなして居るから、きつと楽しんでいただけることと思ふ。

( かく申す某は...  ...懇ろに申すにぞ)

この浄瑠璃の作者 並木宗輔は、この場の敦盛は実は身代りに立てた熊谷の一子 小次郎直家だといふ趣向にして居る。これからの敦盛の述懐は 実は直家の述懐である。趣向の解決を与へるのは四段目切の熊谷陣屋であるが、さうした筋立はすべて承知の上で、太夫なり三味線が、親子の別れをどの程度迄表現するか、御注意願ふと、この浄瑠璃はいよ\/面白いと思ふ。

( 敦盛御声爽やかに...  ...アゝ是非もなしと突立上り)

(大西)