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名人のおもかげ資料 竹本錦太夫

       

使われた音源 (管理人加筆分)
ニッポノホン 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 竹本錦太夫 豊澤仙市 音源
ニッポノホン 桂川連理柵   帯屋の段  竹本錦太夫 豊澤仙市 音源

       

放送記録
270回 昭和26年11月12日 解説:木村 竹本錦太夫の「寺子屋」と「帯屋」

        

(錦太夫)
 竹本錦太夫は 明治十年明石の西本町の伊勢太という炭屋の一人息子として生れる。子供の内から義太夫が好きで、いつの間にか素人浄瑠璃の仲間へはいり、神戸の豊沢団左の稽古場へ通い、素人の大関級になった。そして 先代大隅太夫、豊沢団平に認められ、堀江座へ入座するに至った。近松座没落後、京都の竹豊座で春子太夫、角太夫等と共に興行して居たが、解散後の昭和十四年十月十日 六十三才で名古屋の稽古先で歿。

 錦太夫は特色のある太夫である。
玄人になったのが 既に二十三才の時であった。豊沢団平は素人浄瑠璃の中から彼を見出した。そして態々自分で明石の親元へ行き、プロに転向することをすゝめた。御大の大隅太夫と豊沢団平が 引抜いて来たのであるから入座当初から よい役がついた。その興行は「忠臣蔵」の建てであったが、茶屋場で大隅の由良之助、伊達のおかるに対し、錦太夫は平右エ門であった。あまりの抜擢に、おかるの伊達太夫が大不平であったが、これは師匠の大隅に叱られて納まったが、他の先輩連中が承知しない。今に残ってゐる錦太夫の見台には 意地悪からした釘の痕で紋所も何もかも創だらけになって居る事によっても いかに怨まれたかが想像出来ると思ふ。
一方 文楽座も同じ日から同じ演しもので対抗した。即ち法善寺の由良之助、大掾のおかる、越路の平右エ門という役割である。処が 此の競演が非常な人気を呼び双方共大入満員 四十日間を打ちつづけた。大隅や団平に別れた後は、京都の竹豊座で 大隅ばりの「志渡寺」、「大晏寺」「めし腕」「岡崎」等で人気を呼んだ。生来無口無愛想で 独りで読書してゐる事を好んだ。こんな事が近松研究家の故木谷蓬吟との因縁を作ったものであらう。即ちそのすゝめに従い 近松原作品の節づけに心身を打ち込んだ。二百五十年前に作られた近松浄瑠璃も当時三味線の符章といふものが無かった為、今日文学的価値に於てこそ 日本のシエクスピヤと称されて居るが、さてこれを舞台へ上せる事は全く出来ないのである。僅かに改作ものや増補修正ものに依ってその片鱗を窺へるばかりであるが、それも果して原作の色を残して居るかどうか分らない。錦太夫は浄瑠璃計りではなし、三味線もいけた。しかも三味線の符章にも通じ 作曲にも妙を得て居たので 玄人としての後半世は 即ちこの近松作品の作曲に没頭してと言へる。即ち大正十年 木谷蓬吟の主唱で、近松作品実演会を起し、大阪、京都、神戸で公演した。先づ木谷先生の解説があり、次で錦太夫、越太夫、(組栄)、明石太夫が素浄瑠璃をやった。この内には数種の後世に残る曲を含んで居る。古い方は御記憶にあると思ふが、道頓堀中座の柿葺落に先代鴈治郎がお千代半兵エの上田村を演じた事があった。何分今迄、芝居で一度もやった事のないものであるから鴈治郎も一寸不安を感じたのだろう。浄瑠璃にあるなら一度聞かして欲しいと言い出した。そこで今日でいふ前夜祭といふ様な催しをし、錦太夫は自作の符のものを語った。今日の上田村がそれである。仲々立派なものだ。かくして近松名作実演会は関西で相当な地盤を作った。一挙に上京して鼎の軽重を問うべく大正十二年の九月八日より三日間、東京有楽座公演と決定し、準備万端調ひ 在京智識階級の期待を受けて居たが、一行は東京へはいる迄に九月一日の震災にあい、豊橋から命からがら逃げ帰ったといふのは如何にしても残念な事である。

(寺子屋)
 お師匠様、今から頼み上げまする といふ子供の声を作らず、役者のせりふにならず、自分の声そのままで気分を出して居る処など御注意願いたい。

ニッポノホンの初期のもので、喇叭で吹き込んだものだらう。技術のせいか、どうも三味線の音がをかしい。(木村)