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絵本太功記 (寛政十一年)


特集11 編集後記

身近な山中にはまだ古道や隠れ道が結構残っている。よく散策する所に唐櫃越えという古道があるのだが、丹波山地から京都盆地に抜けることができる脇道で、狭い尾根沿いの道からは木々の間に保津川や嵐山界隈を望むことができる。古来より戦略的に都をめぐる攻防時の奇襲や退却路に使われてきた隠れ道である。かつて明智光秀勢が利用したとする説がある。歴史を遡って天正十年、『六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて維任日向守光秀逆心を企て、・・・、信長を討果し、天下の主となるべき調儀を究め、・・・、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国皆道なり。左に下れば京へ出る道なり。爰を左へ下り、桂川打越し、漸く夜も明方にまかりなり候。』(信長公記巻十五より抜粋)と丹波から洛中に軍勢を進めた。そして、六月二日本能寺の変勃発、しかし奇襲成功も中国から戻った秀吉との山崎の合戦で光秀は敗走し小栗栖にて戦死となる。のち二百年の時を経て寛政・享和年間に史実を下敷きにして絵本太閤記という読本が創作された。評判からこれをまた倣って寛政十一年に近松柳、近松湖水軒、近松千葉軒の合作で浄瑠璃化された。これが絵本太功記である。徳川体制にも翳りが出てきた為か反逆児光秀に光が当たるようになったのだろうか。妙心寺の段や尼ケ崎の段は読み物としての脚色と考えられるが、実際の臨済宗妙心寺には秀吉ゆかりの武家の菩提所が数多くあり、光秀の叔父が光秀追善の為に建てた明智風呂という建物も残っている。さらに劇中の光秀の人物像が近代的演出の要求に合致して、十段目尼ケ崎の段は現在もっともよく知られた浄瑠璃の一つとなった。

さて、今回も特集におつき合い頂き有り難うございます。展示ではほんの一部ですが、昭和期文化の振り返りにも触れました。不幸にも誰もが巻き込まれてしまった戦争、その後続くのは占領政策による混乱、経済復興と成長による社会構造変化とのずれ、さらに平成期に入り実験的世界経済政策の影響、ポストモダン的文化状況における本質の喪失、いやはや大変な70年間です。現在、諸事情から更新が遅延しておりますが、次回の特集と展示室も、準備しておりますのでお待ちください。今後とも宜しくお願い致します。

  2006. 9. 10 大枝山人