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文楽系
幕末期の稲荷社内芝居から、明治期の松島文楽座、御霊文楽座(大正15年に火災焼失)、弁天座を経て四ツ橋文楽座(昭和20年空襲焼失)のち戦後復興まで。さらに、京都南座での引越興行時のものと大正期にあった京都新京極第二文楽座。
稲荷社内芝居
万延元年4月 稲荷社内東芝居 浄瑠璃操り座 竹本長登太夫
人形浄瑠璃中興の祖、三世長門(登)太夫が團平と共にあった時代である。
松島文楽座
明治9年4月 松島芝居 文楽座 竹本春太夫 吉田玉造
文楽座 竹本摂津大掾
大正3年3月 御霊文楽座 紋下 竹本摂津大掾
竹本摂津大掾は大正2年4月で引退しているので六世豊澤広助(三味線のハコの中)とともに名前だけ残している。
文楽座 竹本越路太夫
大正8年2月 御霊文楽座 紋下 三世竹本越路太夫
弁天座 竹本津太夫
昭和4年3月 弁天座 紋下 三世竹本津太夫
大正15年の御霊文楽座の焼失後、弁天座で興行をこの年まで続けている。
文楽座(四ツ橋)
昭和10年11月 四ツ橋文楽座 紋下 三世竹本津太夫 仮名手本忠臣蔵
弁天座の後、移った四ツ橋の文楽座のもの。上段は絵入りである。また、右下の名前印は鶴澤叶で名前を入れてひいき筋に配ったのである。
京都 南座
昭和12年7月 京都四条 南座 紋下 三世竹本津太夫
南座の引越し興行の番付。絵入り台紙が特徴的で緑以外にも別の色のものがある。
文楽座 豊竹古靭太夫
昭和19年9月 四ツ橋文楽座 紋下 二世豊竹古靭太夫
この頃の番付は紙質もいろんなものがあり、戦時の物資やりくりが伺える。翌年、とうとう四ツ橋文楽座も空襲により焼失してしまう。
山城少掾受領
昭和22年5月 四ツ橋文楽座 紋下 豊竹山城少掾
昭和21年に四ツ橋文楽座は再興し、翌年、豊竹山城少掾藤原重房 受領披露 『熊谷陣屋』。同時に八世竹本綱太夫・十代竹澤弥七も襲名した。
新京極第二文楽座
大正13年3月 新京極第二文楽座
南座と同じく引越し興行形式である。
ちらし(同興行のもの)
非文楽系
明治期から彦六座、稲荷座、明楽座、堀江座と続いた後、近松座、そして京都で旗揚げされた最後の非文楽系 竹豊座まで。さらに昭和初期に大阪・新世界で小さい組織ながらも本格的に興行した竹本座。
大江橋席
明治9年4月 大江橋席
稲荷座
明治29年11月 稲荷座 竹本彌太夫 豊澤團平
堀江座 竹本大隅太夫
明治43年11月 堀江座 紋下 三世竹本大隅太夫(番付では太→大)
この時の団平はすでに3代目になっている。残されているレコードも三世竹本大隅太夫・三代豊澤団平のもの。
近松座 竹本大隅太夫
明治45年6月 近松座 紋下 三世竹本大隅太夫(番付では太→大)
近松座は竹本大隅太夫の死後も大正3年ごろまで続くが、その後身振り浄瑠璃と形を変えていく。
竹豊座 竹本春子太夫
大正6年11月 竹豊座 紋下 二代竹本春子太夫
大正6年京都で開場した最後の非文楽系興行である。
竹本座
昭和7年 初興行 竹本座 新世界演舞場
人形も入り、形は本格的な人形浄瑠璃である。
文楽の興行で先ず目にするもの番付。義太夫SPレコードが発売された時代の文楽系、非文楽系でいろんな紋下のものです。短いようで密度の濃い歴史です。また、番付の見方については『今日の文楽 岩波講座 歌舞伎・文楽10』うち『激動の昭和文楽』に詳しく書かれていますので参照ください。